キリスト教、宗教-信仰と似て非なるもの

生きる方向が変わった

私は30歳の時に、神様が目的を持って私をこの世界に置いてくれたことを知って、クリスチャンになりました。その時から生きる方向、目的が明確に変わったと思います。それ以前は自分の思いを中心にしていましたが、それ以降は神様の私に対する思いや願いを求めて生きるようになりました。それから24年が経ちましたが、基本的にはずっと神様の思いを求めて生きてきたと思います。それは今も変わりません。

十字架の恵みも知った

神様が人となってこの地上に来てくださり、私の罪の身代わりとなって十字架について死んでくださったことも知りました。それまでは、こんな自分では駄目だといつも思っていましたが、イエス・キリストの十字架による罪の赦しを知った時に、駄目な自分でも大丈夫と自分を受け入れられるようになり、感動で涙が溢れたことを思い出します。今もその喜びは変わりません。

どうしてキリスト教というコンセプトになってしまったのか

この喜びを伝えたいと思い、それまで13年間勤めて来た高校の教師を辞めて、キリスト教会の牧師になりました。9年間牧師をしましたが、今思うと、どうして人々をキリスト教に改宗させるというコンセプトになっていたのだろうかと思います。そして、私たちの親や兄弟は特にそうだろうと思いますが、私たちが神社にもお墓参りにも行かなくなり、仏壇に線香もあげなくなったことを初め、私たちがキリスト教徒になってしまったことに不快な気持ちを持っただろうと思います。

何が問題だったのか

それは信仰と宗教とを混同したためだったと思います。神様の思いを中心にして生きることもイエス・キリストの十字架による罪の赦しによって、不完全な自分を受け入れて生きることも宗教ではなく信仰だと思います。本当はこれを伝えたかった。もちろんキリスト教は悪いものではないでしょうし、キリスト教を批判している訳ではありませんが、私は本当はキリスト教を伝えたい訳ではなかったことに気が付きました。

間違いなさそう

そんな自分の考えは本当に正しいのだろうか。世界三大宗教の一つであるキリスト教を前に・・・、もちろんそんな不安がない訳ではありません。でも、そんな自分の考えを確かめるために、あらためて聖書を読んでみると、イエス・キリストは「神様に立ち返るように」とは教えていますが、キリスト教徒になるようにとは教えていないことが分かりました。また、他のクリスチャンの方々の意見を聞いてみても、今のところ間違いでもなさそうだなあ、と確信を強めているところです。

キリスト教よりも早く伝えられていた

聖書やイエス・キリストは西欧キリスト教によって日本に伝えられたと思っていましたが、実は調べてみると、そうでもないことも分かって、ますますその確信を強めています。紀元前の古代日本にイスラエルからの渡来人があったこと、またイエスを直接知っていた人々の末裔が秦氏と名乗って日本にやってきて、日本人の信仰、文化、価値観に大きな影響を与えたことも知りました。

本家本元

なんだ、神様の思いを中心にして生きること、イエス・キリストの十字架による罪の赦しによって、不完全な自分を受け入れて生きること、それは、もうずっと前から日本に伝えられていて、キリスト教よりも日本の方が本家本元なんですね。それなら、なおさら日本人がキリスト教徒になる必要はないと確信を強めた次第です。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。神様はあなたに、こう生きて欲しいという願いがあって、あなたに命を与えました。自分の思いではなく、その神様の思いを中心にして生きて欲しいと思っています。

新約聖書 ルカの福音書22章~54節

彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真ん中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません」と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。

それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。

主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。

自分の弱さと直面する

「ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言ったペテロでした。イエスを知らないなどとは口が裂けても言わないと自分では思っていたのではないでしょうか。しかし、私たち人間は何と弱い者でしょうか。そんな自分の弱さに直面し、ペテロは外に出て激しく泣きました。

絶望も素晴らしい

でも、私はこのように自分の力に完全に絶望することは大事なことではないかと思っています。いつまでも自分の力に頼っていると、緊張します。いつも不安がつきまといます。うまくいけば有頂天、失敗すれば奈落の底。そんな感じではないでしょうか。でも、自分に絶望している人は、やるべきことはもちろんやりますが、後は全面的に神様におまかせするでしょう。

本当の力

神様がしてくださるのですから、多少の緊張はあっても、不安はありません。うまくいったら神様に感謝します。失敗しても、神様には別の計画があるのかもしれません。でも、これは単なる考え方の問題ではないと思います。誰でも自分に絶望したくはないでしょうけれども、絶望した人しか知らない世界って、やっぱりあると私は思います。