「イスラエル12部族に関する聖書預言と日本」というディープなテーマに入る前に、どうしてそういうことを考えるようになったのか、ここに至る私の信仰の歩みをまとめておきたいと思います。今日はその(3)です。
正統キリスト教(プロテスタント)神学の幅
イエス・キリストは十字架と復活によって人類の罪を贖(あがな)ったので、イエスを罪からの救い主と信じるなら、罪が赦されて救われるという教えが正統キリスト教(プロテスタント)神学の中心だと思いますが、正統キリスト教の中にも教派によって様々な強調点があります。
私が神学校で学んだ信仰
私が学んだ神学校では神様の恵みが強調されていました。人が救われるのは神様の恵みによるのであって、人間の努力や行いによらない、人間がすることはイエス・キリストを信じるだけだと学びました。確かに私自身、以前はああなしなければいけない、こうしなければいけないという思いに縛られていたように感じ、行いではなく、私の存在そのものが神様に喜ばれているのだという教えは私に大きな喜びをもたらし、この福音(良い知らせ)を人々に伝えたいと思って牧師になったことは事実です。
牧師になって感じたこと
ですから私の説教は神様の恵みが中心だったと思います。聖書のどこの箇所であっても、人間がすべきことよりも、神様が私たちにどんなに素晴らしいことをしてくださったのかということを説教しました。その話を聞いてクリスチャンになった人もいましたし、この神様の恵みに応えたいということで牧師になった人もいました。しかし、大半の方々の人生はあまり変わらないようにも感じました。神様の恵みを知れば、人生は変わると思っていましたので、なぜ変わらないのかと不思議に思っていました。
ある男性の相談
ある時、何度か教会に来ていた中年の男性から相談を受けました。この方はクリスチャンではなかったと思います。教会に来ている生意気そうな若い二人の男性を見て、あのような人でも救われているのかと質問されました。もしかしたら、彼らから何か傷つけられるような言葉を言われたのかもしれません。また、この男性の父親は真面目な人生を送ったそうですが、それでもキリストを信じていなければ救われないのかとも質問されました。私はそうだと答えるしかありませんでした。それなら、こんな宗教は信じないと言って、この男性はそれ以来教会には来なくなりました。
本当にそうなのでしょうか
正統キリスト教神学から言えば、そう答えるしかなかったと思いますが、本当にこれでいいのだろうかという思いもありました。キリストを信じていないということで、神様は本当に真面目に生きている人を救わないのか。逆にどんなに不真面目でもキリストを信じていれば救うのか。それはおかしくないか。何が本当のことなのか。私の真理探究の歩みは、このあと新たな出会いを通して、思わぬ方向へと進んで行きます。続きは次回へ。もうしばらくお付き合いください。
聖書を読みましょう
それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書はイスラエル人の歴史の記録であり、実は日本人の信仰と習慣の原点でもあります。キリスト教という宗教とは切り離して、日本人として聖書を読んでみてください。
新約聖書 マルコによる福音書 12章1~12節
そこでイエスは譬(たとえ)で彼らに語り出された、「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になったので、農夫たちのところへ、ひとりの僕を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。すると、彼らはその僕をつかまえて、袋だだきにし、から手で帰らせた。
また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大ぜいの者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。
ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。すると、農夫たちは「あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ」と話し合い、彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
このぶどう園の主人は、どうするだろうか。彼は出てきて、農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。
彼らはいまの譬が、自分たちに当てて語られたことを悟ったので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。
祭司長、律法学者、長老たちへの譬
「彼ら」とは祭司長、律法学者、長老たちといったユダヤ教の中心的な人たちです。彼らは神様から神の民の指導をまかされたのに、それを宗教にして自分たちのものにし、神様から離れてしまった。神様に忠実に従うようにと、神様は何度も預言者たちを送りましたが、彼らは聞き従うどころか、彼らを殺してしまったという譬でしょう。
彼らへの警告
「愛する子」とは、イエス自身のことを言っているのだと思います。彼らはこれも殺して、ぶどう園を自分のものにしようとしているという譬です。彼らもそう理解しました。今、イエスははっきりと彼らに語ったのです。聖書にもそのように書いてあるとイエスは警告しました。しかし、彼らは自らの態度を改めるどころか、イエスに対して敵意を抱きました。ただ、群衆を恐れたので、その場は黙って立ち去ったのだと思います。
神様を中心にすること
自己中心を退けて、神様の思いを中心にすることは容易ではないのかもしれません。それほどに人間の自己中心とは根深いものなのでしょう。しかし、それは正しくないことは誰でもその良心で判断できると思います。遜って神様を中心にすること、それが救いであり、神の国だとイエスは教えたのだと思います。また、日本人は太古の昔から、そのことを知っていたと思います。
いかがでしたか
参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
本をお求めください
Amazonから書籍「日本人の信仰が世界を救う—元キリスト教牧師が語る神の国ニッポン」を出版しています。電子版800円。文庫版2,182円です。日本人の高い国民性のルーツは聖書にあること、イエスの教えはキリスト教よりむしろ「日本人の信仰」の中に引き継がれていることが分かります。ぜひ、読んでみてください。
本書の目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
七章 「子供の教育」
八章 「恋愛・結婚」
詳しくは書籍情報をご覧ください。