「人間関係」自分自身を振り返る

「人間関係」を難しくしているものは何でしょうか。相手を受け入れられないということでしょうか。自分と違う考えの人がいることは当たり前だと思いますし、違う考えを聞いてみることは自分のためにもなりますので、人間関係には意味があるとも言えます。

「人間関係の難しさ」とインターネットで検索してみたら、このような記事を見つけました。「なるほど」役に立つのではないかと思いましたのでご紹介いたします。

相手に対する敬意を払い、相手の話に耳を傾けているか?

人間関係を形成するのに最も重要なツールである会話。様々な価値観を持ち、育ってきた背景が異なる人と会話をするにあたって、あなたは相手に対する敬意を払うことを忘れてはいけません。親しき仲にも礼儀ありといいますが、相手に対して敬意を払い、相手の話に耳を傾けることはコミュニケーションの基本です。

客観的な視点はあるか?

人間関係で何かトラブルや揉め事があるとき、人は感情に打ち負かされ、客観的な視点をついつい失いがちになってしまいます。そんな時は、冷静になって客観的な視点を取り入れる努力をしましょう。

難しさを複雑にしていないか?

逆説的になりますが人間関係は難しく考えすぎると、さらに難しくなってしまうときがあります。シンプルに考えてみることが人間関係の形成や改善に関するアイデアを生むことがあります。

対象を広げすぎていないか?

様々な人の利害関係や調整を行うとすると、かえって人間関係がこじれてしまい収拾がつかなくなるときがあります。そんな時はできるだけ対象となる人物を絞り込んで対処していくことも一つの方法です。(サイトからの引用は以上です。)

問題は自己中心

「人間関係」を難しくしてしまう問題は具体的には様々あると思いますが、結局「自己中心」に行き着くのではないでしょうか。中心が自分である限り、根本的には問題は解決されないように思います。

どうしたら良いのでしょうか

それと分かっていても、自分の力で「自己中心」を克服するのは難しいと思います。人は皆、生まれながらに「自己中心」だと思います。私は自力で「自己中心」を克服するのではなく、「神様を中心にする」ことをお勧めしています。それは何かの宗教をやることではありません。自分の願いではなく、神様の願いや思いを達成すること。そこに自分が人として生まれて来た意味があり、そこに幸いな人生があると思います。

聖書を読みましょう

そのために毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めします。聖書は神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の信仰と生き方に深い関係があります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心にして生きるために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 8章18~22節

さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」

向こう岸に行く

イエスの教えを聞き、またイエスが超自然的な力で病人を直すのを見て、多くの群衆がイエスの回りには集まっていたようです。その群衆を見て、イエスはそこを離れて、向こう岸に渡ることを考えられたようです。次のステップに進む人たちを選り分けるためだったのでしょうか。それとも別の場所でも教えを宣べられるためだったのでしょうか。

覚悟を問う

すると、一人のユダヤ教の教師である律法学者がイエスについて行きたいと申し出ました。「人の子」とは旧約聖書が預言するメシヤを暗に指している言葉だと言われます。イエスはご自身を指して言われたのでしょう。枕する所もない。そういう覚悟は出来ているのかと問われたのではないでしょうか。

私に付いて来なさい

私はイエスの弟子だと自認する人が、まず父の葬儀をさせて欲しいと申し出ました。イエスは葬儀は他の人に任せて、私に付いて来なさいと言われました。厳しいですね。父の葬儀をすることも大切なことだと私は思います。どういう事情があったのか分かりませんが、イエスはそこまでの覚悟をこの弟子には求めたということなのかもしれません。これがイエスの教えだというよりも、一つのエピソードだと私は思います。

生き方の問題

仏教でも、葬式仏教などということが言われますが、本来は生きている者のための教えであり、死者の葬儀などは他の人に任せておけと教えていると聞いたことがあります。神様を中心にして生きるとは、冠婚葬祭の儀式のことではなく、生き方の問題だと思います。イエスはそのことを教えたのかもしれません。もちろん、生きている者にとって、冠婚葬祭も大切なものだと私は思います。

いかがでしたか

「日本人の信仰と聖書について考える会」では、宗教ではなく、神様を中心として生きる幸いについて、多くの人にお伝えできるように、パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」(1部10円。100部以上で送料無料。)を作成しました。皆様のお知り合いの方にぜひお渡しください。ご協力をよろしくお願いします。

参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

■お知らせ■

2017年5月11日(木)19:00~20:00 泉パークタウンタピオ(仙台市泉区寺岡6丁目5-1)南館1階パークタウンスタイルで「古代史に見る日本人とユダヤ人の不思議な関係」と題してお話しいたします。入場無料、予約不要です。ぜひお出で下さい。詳しくはホームページのインフォメーションをご覧ください。