人が怖い

今日は「人間関係の悩みのヒント」というサイトから「人が怖い」という記事を紹介したいと思います。中には、そのために人と接する機会を避けてしまう人もいるでしょう。

怖い人/危険な人もいる

街中や電車内などで、最近、怖い人や危険な人が増えているように感じるのは、私だけでしょうか。・・・マナーが悪い人もいます。・・・そもそも、危険な人はごく一部です。・・・危険な人とは関わらなければ大丈夫なのです。危険な人に気づける人のほうが、危険な目に遭うことを避けられるのではないかと思います。・・・必要以上に恐れないようにできたら、と思います。

恐怖心は警戒信号

危険性に気づいている人は、そんなに恐れることはないと思います。・・・危ない人には近寄らないように、関わらないようにすればいいのです。・・・危険を回避することを「逃げる」とか「負ける」とか考える必要はないのです。・・・「怖い」と感じても、自ら危険を回避する行動をとったら、それ以上は気にしない(苦にしない/あまり動揺しない)ようにしたほうがいいでしょう。

自分の心を支える

「(人が)怖い」と感じることがあっても、苦にしないことが大切です。
・危ない人もいる。でも、そういう人はごく一部。
・危ない人も関わらないように気を付ければ大丈夫。
・「怖い」と感じるのは警戒信号。危険回避に役立てればそれでいい。
恐怖心が強くなってしまうのは、自分が恐ろしい成り行きを想像してしまうからではないでしょうか。余計なことは考えないように、「怖いと気づいていれば大丈夫。ふつうにしていれば大丈夫。今までだって大丈夫だった。」のように考え、自分の心を支えればいいのです。(サイトからの引用は以上です。)

大人の男性が怖い

私はかつて大人の男性が怖いと感じていました。たぶん父親が怖かったからではないかと思います。でも、父親もまた神様の前では一人の不完全な人間に過ぎないと分かって、にもかかわらず、一所懸命に私を育ててくれたんだと思った時に、急に父親が怖くなくなり、いとおしく思えるようになったのを思い出します。それ以来、大人の男性が怖くなくなりました。

神様を中心とすることで解決する問題

現実的な危険を回避することは大切なことだと思います。しかし、私のように現実的な危険は想定できないのに怖いということもあるかもしれません。神様を中心にすることで適切な対応ができるようになると思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けましょう。

新約聖書 使徒の働き 8章1~13節

サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。

汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。

ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行って、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能(たいのう)と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。

人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名(みな)について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。

シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行われるのを見て、驚いていた。

新しい宗教になっていった

イエスの弟子たちの共同体は「エルサレムの教会」と呼ばれるような団体として認識されるようになったのかもしれません。それはユダヤ教とは違う、新しい宗教団体のように考えられるようになり、異端として迫害を受けるようになったのかもしれません。12人の使徒以外の人々は散らされて行き、サウロという人物は家々に入り、この新しい宗教の信者だと分かれば投獄したということなのでしょう。

「神の国」と「キリスト」のことが伝えられていった

ところが、散らされた人々が「みことば」を宣べながら巡り歩くと、多くの人々がその言葉を受け入れたとあります。「みことば」とは神様のことばという意味ではないかと思いますが、どんなことを伝えたのでしょうか。具体的にその内容が書かれていないので分かりませんが、「キリストを宣べ伝えた」、「神の国とイエス・キリストの御名について」と書かれています。

その内容を想像すると

それは、私たちが神様を中心にして生きることができる(それが神の国)ように、イエスという人が私たちの身代わりに十字架で死んで罰を受け、3日目によみがえり、これが神様の驚くべき力であることを示した(それがユダヤ人が昔から言い伝えて来たキリスト)という内容だったのではないかと私は想像します。

神様を中心にして生きる

そこには驚くべき奇蹟が伴っていました。つまり、これは単なる新しい教えということではなく、間違いなく神様の力だということではないかと思います。私たちも安心して神様を中心にした生き方をして大丈夫だと思います。そうすれば全ての問題の解決があるという驚くべき体験をすると思います。

それは日本人の生き方

サマリヤの人々はバプテスマを受けて、彼らの弟子入りをしたようですが、それは必ずしも必要ではないと私は思います。大切なことはキリスト教徒になることでも、何かの宗教の信者になることでもなく、神様を中心にして生きることだと思います。それは日本人が太古の昔から大切にしてきた生き方だと思います。