嫌いな人との人間関係をどうするか

先週に引き続き、「人間関係の悩みのヒント」からご紹介し、私の考えを書いてみたいと思います。今日のテーマは「嫌いな人との人間関係をどうしたらよいのか」ということです。まず、記事を紹介します。

「こんな人もいる」と考えた方がいい

世の中にはイヤな人もいます。そういう人の存在やあり方を否定しても腹が立ったり悲しくなるだけで、そういう人をいなくしたりそういう人を変えることはできません。「こんな人もいる」「こんな人のためにイヤな気もちになるのは損だ」と考えてしまったほうがいいと思います。

「このままでいいか」と考えてもいい

また、誰かと多少悪い関係になってしまうことがあっても、そういう関係を苦労して改善しようとしなくても、「このままでいいか」と考えてしまってもいいと思うのです。

「まず黙る」「好きな人のことを考えよう」

頭にくることを言ったりして平気で人を傷つける人もいます。そういう時には「まず黙る」などでその場をなんとかやり過ごし、その場を離れたら、イヤな相手のことは考えないように、「こんな人のことより好きな人のことを考えよう」などと考えられたら、と思います。

それなりにつきあう

嫌いな人とはつきあわないようにできればいいのですが、つきあう必要がある人もいます。そういう場合には、嫌いな人ともそれなりにつきあうことができたらいいのですが。(記事からの引用は以上です。)

「神様を中心とする」ことで解決する

ひとことで言えば、そういう人もいるという現実を受け入れて、自分ができることをするということだと思いますが、私はまったく同感です。このサイトにはもっと詳しく具体的に書いてあるのでとても参考になると思いました。私の言葉で言うなら、やはり「神様を中心にする」ということで解決できると思います。

それは現実を受け入れる力

この世の中には確かにいろんな人がいます。ひどい人もいるかもしれません。時には自分もひどい人になっているかもしれません。でも、すべて神様が許された範囲で起こっているということ。それを受け入れることが神様を中心とすることだと思います。それは現実を受け入れる力だと思います。

私たちはそれぞれ神様の前に生きる者

人は皆、不完全なものですから、それぞれ神様の前に成長しなければならないし、最終的にどのような人生を歩んだのか、それぞれが神様の前に申し開きをしなければならないことだと思います。それは、その人と神様との問題であって、私の問題ではありません。それは神様にお任せする領域だと思います。

神様に任せる領域。私に任されている領域。

そして、自分と神様との関係の中で、自分がしなければならないこと。それは私の領域だと思います。この世の中は決して私の思う通りにはならないでしょう。なぜなら、この世界は私を中心に回っているのではなく、神様を中心に回っているからです。神様に任せるべき領域は神様にお任せし、私に任せられている領域は、その責任を神様の前にしっかりと果たして生きる。そういうことが大切ではないでしょうか。

神様が中心でなかった頃は、よくイライラしたものです

そのような考え方が出来るようになったのは、私が神様を中心にすることを知ったからだと思います。自分が中心だった頃は、そうは思えませんでした。嫌な人がいれば、何とかやっつけたいとか、自分の思うようにしたいと考えたものでした。でも、それは中心が自分だったからだと思います。その結果、私はよくイライラしていたものです。

嫌なことがあっても、心晴れやかに生きるために

今も嫌なことがなくなった訳ではありませんが、嫌だなと感じることがあったとしても、それはそれ、私は心晴れやかに過ごしています。だから神様を中心にすることだと思います。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。神様を中心にしましょう。

新約聖書 使徒の働き 3章20~26節

それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』

また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。

神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」

漁師ペテロの聖書に対する見識に驚かされます

集まって来た人々に語ったペテロの言葉の続きです。ペテロはガリラヤ湖で魚を獲る漁師だったことを考えると、その聖書の知識には驚かされます。ユダヤ人は聖書の専門家でなくても、このような聖書に対する見識を持っていたということなのでしょうか。かつて日本を訪れたフランシスコ・ザビエルや黒船のペリー提督が、日本人は農民でも読み書きできることに驚いたという記録が残っていますが、ユダヤ人もそうであったのだろうと思います。

イエスは神様が遣わしたメシヤ

ここでペテロが言っているのは、イエスこそモーセやサムエルを初め旧約の預言者たちが預言したメシヤ、救い主、人となった神様だということだと思います。イエスによって私たちは邪悪な生活から、神様を中心とした生活へと立ち返ることができるということだと思います。イエスの言葉を良く読んで、神様を中心とした生活をしましょう。すべての問題の解決がそこにあります。