人間関係を中心にしないで神様を中心にする人間関係

幸せは人間関係しだい?

人間関係が良好であれば、職場も、地域も、家族も、人生は楽しいと思えますが、人間関係が悪ければ、生きているのも辛いなんて方もいらっしゃるのではないでしょうか。結構、人生の幸せは人間関係に左右されていると言ってもいいのかもしれません。このページを検索して来られた方の中には、人間関係に悩んで、何か良い解決はないかと捜している方もいらっしゃるかもしれません。解決はあると思います。どうぞ参考にしてみてください。

中心は何?

実は、人生の幸せが人間関係に左右されているとすれば、それは人間関係があなたの人生の中心になっているということを示していると思います。もちろん、私だって人間関係は良いに越したことはありません。でも、それが中心になると解決どころか悩みが増えてしまうと私は思います。

あなたの幸せは何にかかっているのか?

私は人生の中心を人間関係にではなく神様に置いています。つまり、人間関係は良好な時もあれば、そうでない時もあるかもしれません。長い人生にはいろいろな局面があるだろうと思います。でも、私の幸せはそれによって左右されないということです。いつも神様の前に平和と喜びと安心を持つことができれば、私の人生は人間関係という風が吹いて、少しは揺れることはあるかもしれませんが、決して翻弄されたりはしないということです。

神様を中心とすること

こうして神様の前に私の人生が安定して来ると、自然と人間関係にも良い影響が出てくると思います。つまり、神様との縦の関係が人との横の関係に影響を与えるということです。ですから、まずは神様と自分の関係を点検し、神様の前に自分の生き方をしっかりと確立させることが良い人間関係の土台になると私は思います。

神様の受容力

結局のところ、良好な人間関係を築く上で大切なことは、どれだけ相手を受け止めることができるかという受容力にかかっているのではないかと私は思います。そして、それは自分がどれだけ神様に受け止められているかということの自覚にかかっているように思います。簡単に言えば、神様は私の味方だという自信があれば、どんな人も受け入れることができ、良好な人間関係を築くことができるようになると思います。

神様との関係が人間関係に波及する

言い換えれば、人間関係というのは、自分と神様との関係の結果に過ぎないということだと思います。神様との関係が親密であればあるほど、人間関係にも良い影響をもたらすことになると思います。人間関係を中心にしないで、神様との関係を中心にすることが大切だと思います。

神様に思いを向ける

それは何かの宗教を信仰することではありません。今、ここにいてくださる神様に思いを向けることに他なりません。今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けていただきたいと思います。

新約聖書 ルカの福音書22章15~23節

イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」

そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」

そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。

過越の祭に隠された意味

イスラエル民族がエジプトを脱出して、パレスチナに定住するようになったのは紀元前10世紀以上も前の出来事ですが、それ以来、イスラエル人は毎年この過越の祭を祝い、過越の食事をしてきました。ここでイエスはその隠されていた本当の意味を弟子たちに教えられたのだと思います。

過越のパンはイエスのからだを意味している

イスラエル民族が、千年以上にわたって、毎年過越の日に裂いたマッツァと呼ばれるパン種の入っていないパン。実は、それは私のからだを指しているとイエスは言われました。パンを裂きながら、これはイエスが私たちのために十字架で自らの体を裂いてくださることを表していると言ったのだと思います。

杯のぶどう酒の意味

杯は、「あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われました。私たちの救いのためにイエスご自身が十字架で血を流してくださるということだと思います。これからは過越の食事をする時には、イエスの十字架の死とその意味を思い起こしなさい。これが新しい契約だということだと思います。

過越はイエスの十字架による人類の救いを意味していた

神様が人となって、十字架について、私たちの問題を取り除いてくださる。これまで千年以上も守って来た過越の食事はそのことを指しているとイエスは言われました。弟子たちはその意味を理解したのでしょうか。そして事実、イエスはこの数日後に十字架について死んだのです。

神様は私の味方

私たちはみんな自分自身の中に問題を抱えていると思います。問題のない人はいないと思います。そんな者を、いや、そんな者だからこそ、神様はご自分の命まで捨てて、受け入れてくださったのだと思います。神様は悪を憎まれますが、問題を抱える私たちのことはこれほどまでに愛して、受け入れてくださったということです。神様は絶対に私の味方だと私は思っています。

神様との平和を土台とする

この神様との関係を土台にするなら、人間関係に安心感を求めなくても大丈夫ではないでしょうか。むしろ人の不安や問題を受け入れてあげることができるようになるのではないでしょうか。だから人間関係にではなく、この神様を中心にして生活しましょう。もうこのブログでは何度も書いてきましたが、それはクリスチャンになるということを意味しないと思います。大切なことは神様を中心にすることだと思います。