自己中心的な言動、配慮のない言葉にどう対処するのか
木曜日のテーマは「神様を中心とした人間関係」です。今日は人間関係の中で傷つくことにどう対処したら良いのか考えてみたいと思います。心無い一言で傷つく。カチンと来る。そういう経験は誰にでもあると思います。相手を傷つけてやろうというあからさまな悪意がなくても、無意識の内に人を見下して相手を傷つける言動は、実は自己中心から出て来るものだと思います。またそうでなくても、配慮のない言葉に傷つくことがあります。そのような言動にどう対処したら良いのでしょうか。
神様の前に自分の非を認める
ポイントは相手との比較ではなく、神様の前に自分は決して完全な者ではない。むしろ欠点の多い者であるという自覚を持つことだと思います。私だって正しいと自己正当化したいという思いは、結局は自己中心なんだと思います。神様を中心にして生きようとしたパウロという人は、自分が神様の前に決して正しい者ではないことを繰り返し書いたことが聖書として残されています。パウロは自分を「罪人のかしら」とまで表現しました。このような自覚を持っているならば、たとえ見下された言動をされたとしても、傷つきもしないし、カチンともこないと思います。「お前は馬鹿だ。」と言われて、「はい。私はあなたが思っている以上に、実はもっと馬鹿なんですよ。」と思っていれば、決して傷つかないと思います。
カチンと来たら感謝する
実は傷つくのはプライドという自己中心か原因かもしれません。もし、人の言動に傷つくということがあった時には、「私はまだまだプライドがあるんだ」と思って、そのことに気づかせていただいてありがとうと思えば良いと思います。
自分の愚かさを認めることこそ日本人の美徳ではないか
それではあまりに自分が惨めではないかと思われるでしょうか。実はそんなことはないと思います。これは決して人との比較ではありません。神様の前にいかに自分が罪深い者であるかということを認めることは本当の意味で謙遜だと思います。自分の非を認め、自分を決して正しくない者として受け止めることができることは神様の前に大変価値あることだと私は思います。これこそ日本人の美徳ではないでしょうか。日本人は太古の昔からこのような美徳を大事にして高く評価してきたんだと思います。
これが神様中心の評価基準ではないでしょうか
これは神様を中心とした物の見方だと思います。つまり、そのような者を神様は高く評価し、それでこそ神様の民だと認めてくださるのだと思います。私たちは人からの評価よりも、このような神様の評価によって生きる時に、本当に価値のある、気高い生き方をすることができるようになるんだと思います。人間の評価ではなく、神様の基準で生きてみませんか。それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみますので、神様を中心とした生活の参考にしてみてください。
新約聖書 ルカの福音書12章32~34節
小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国(みくに)をお与えになるからです。持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。
御国を与えてくださる
昨日の箇所に続いて、イエスが弟子たちに教えた言葉です。この前の箇所で、生活のことを心配するのではなく、神様を中心とすることを求めなさいとイエスは弟子たちに教えました。そして、あなたがたの父、つまり天の父なる神様は喜んであなたがたに御国(みくに)を与えてくださるという今日の箇所に続きます。それは神様を中心とする国ですが、今、こうして神様を中心にして生活するだけでなく、やがて私たちは神様と顔と顔とを合わせて共に生きるようになるということを言っているのかもしれません。
朽ちない宝を天に積み上げる人生
持ち物を売ってまで施しをする。自分のプライドを手放して神様を中心とすると言っても良いかもしれません。そうやって神様の願いを中心とした生活をすることは朽ちることのない宝を天に積み上げることになるとイエスは弟子たちに教えました。皆さんの宝は何でしょうか。この地上の朽ちる宝でしょうか。それとも神様の願われる朽ちることのない宝でしょうか。私たちの心はこの地上にあるのでしょうか、それとも天に、神様の思いに向けられているのでしょうか。何を宝とするのか。そこに私たちの心は向けられるものだと思います。日本人は太古の昔から、この地上にではなく、神様に心を向け、朽ちない宝を天に積むことに高い価値を置いて来たんだと思います。