ホームスクーリングという選択肢

我が家ではホームスクーリングをしました

我が家では長男が中3の途中から、長女が小6、次女が小5の時からホームスクーリングをしました。アメリカでは200万人以上の人がホームスクーリングをしており、すでに法制化されているようですが、今から15年ほど前の日本でホームスクーリングをしている方はほとんどいませんでした。

日本でも増えているようです

きっかけはホームスクーリングをサポートする「チアにっぽん」という働きが日本でも始まり、そのセミナーに参加したことでした。ホームスクーリングというのは、子供を学校に通わせないで、家庭で教育をすることですが、現在ではその数も増えて来ているようです。

学校の教育に不安を感じる方もいらっしゃるかもしれません

子供が自己中心ではなく、神様を中心にして生きることができるように教育することが大切だと思いますが、今の学校の現状に不安を感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。学校では子供が親や先生を敬い、その言うことに従順に従うことが良い事だと教えられているのだろうか。また、子供に正しくない言動があった時に、先生はその都度、それは正しいことかどうかと子供の良心に向き合ってくれるのだろうか。

子供には指導が必要だと思います

子供は何が正しいことなのか、また何が悪いことなのか、指導されれば覚えることができると思います。しかし、放っておいて自然に身に付く訳ではないと思います。子供を愛する親や教師の指導が必要だと私は思います。

どう指導すべきか分かっているのでしょうか

また、学校ではいじめの問題が今もニュースになります。いじめについても、学校では正しい指導をしてくれるのだろうかと心配される方もいらっしゃるのではないでしょうか。人の心の中にはいじめたい気持ちが起こることもあるでしょう。しかし、それはいけないことだと先生は指導してくれるのでしょうか。それとも見て見ぬ振りをしてしまうこともあるのでしょうか。または、どう指導すべきか本当に分かっているのでしょうか。

学校に行くことが全てではない

学校は良い教育をしていないと一概には言えないと思いますし、学校よりホームスクーリングの方が良いと簡単には言えないと思います。どちらにもメリット、デメリットはあると思います。ただ、今日お伝えしたかったことは、学校に行くことが全てではないということを知っていただけたらと思いました。

ホームスクーリングという選択肢もある

学校に行きたがらない、行きたいけど行けない、そういう子供もいると思います。また、学校の教育に不安を感じている親もいると思います。それなら、家庭で勉強し、教育するホームスクーリングという選択肢もあるということをお伝えしたいと思いました。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 18章1~8節

その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである。

パウロはふたりのところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人を承服させようとした。

そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。

しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。

そして、そこを去って、神を敬うテテオ・ユストという人の家に行った。その家は会堂の隣であった。会堂管理者クリスポは、一家をあげて主を信じた。また、多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた。

まずユダヤ人に、そして異邦人に

ここでもパウロはまずユダヤ人たちにイエスがキリストであるということを話しています。しかし、ユダヤ人たちが暴言を吐いたので、「今から私は異邦人のほうに行く」とパウロは言いました。以前私は、ユダヤ人伝道をして来たパウロが、これからは異邦人伝道に方針を変えるという意味だと理解していましたが、そうではないようです。

方針の転換ではない

パウロはこれ以前にもすでに異邦人に神様の話をしていますし、この後にもユダヤ人にイエスがキリストであることを話しています。これは方針転換ではなく、コリントでもまずユダヤ人にイエスがキリストだと話しましたが、彼らが聞かなかったので、これから異邦人のほうに行くと言ったということだと思います。

聖書の知識を持つユダヤ人

イエスがキリストであるかどうかという神学的な話は聖書の知識を持つユダヤ人に伝えるべき話だと思います。だから、パウロはいつでも、どこでも、まずユダヤ人に伝えたのではないでしょうか。それはユダヤ人には何の話かすぐ分かる話だったと思います。それゆえに、激しい反発もあったのだと思います。しかし、異邦人に必要なのは、そのような神学的な話ではないと思います。

異邦人に必要なこと

大切なことはイエスがキリストであるという神学的な知識ではなく、神様が一人の人をお立てになって、私たちの罪を贖うために十字架につけ、その確証としてよみがえらせたという事実であり、だから私たちは自分を中心とした生き方ではなく、神様を中心にして生きることができるようになったということだと思います。

神様を中心に生きる

コリントでも多くの人が神様を中心にして生きるようになりました。私たちも神様を中心にして生きましょう。