チアにっぽんの白馬セミナーで分科会をさせていただきます

「ホームスクーリングと聖書と日本文化について考える」という題でお話しします

11月17日(木)~19日(土)にホテルグリーンプラザ白馬(長野県)を会場にして、チアにっぽん(ホームスクーリングを支援するクリスチャンの団体)が開催する「励ましとチャレンジセミナー in 白馬」の分科会で「ホームスクーリングと聖書と日本文化について考える」と題してお話をさせていただきます。私は今日18日(金)の午前中に分科会をしますので、ぜひ聞きに来てください。

子供に神様を中心にすることを教える

今日は簡単に私の分科会の要旨をお伝えしたいと思います。3つのポイントでお話しします。1つ目は「子供に神様を中心にすることを教える」です。我が家では3人の子供達を長男は中学3年生から、長女と次女は小学6,5年生から、それぞれ学校ではなく、ホームスクーリングをしてきました。一番力を入れたことは、毎日お祈りして、聖書を読んで、感じたことをノートにつけることでした。3人の子供達は大人になった今でも、たぶん毎日祈って、聖書を読んで、ノートをつけているのではないかと思います。

その都度、子供に考えさせる

でも、今振り返って思うことは、それは子供達が神様を中心として生きるための一つの手段であって、それをしていれば良いということではないので、もっと神様を中心とするということに焦点を当てるべきだったかもしれません。具体的に毎日の生活の中で、神様を中心としていない子供の言動があった時に、その都度、それは神様が喜ばれることがどうか、もっと子供に考えさせることができたかもしれないと思っています。

子供に日本文化の優秀性を身に付けさせる

2つ目に「子供に日本文化の優秀性を身に付けさせる」ことの大切さについてお話ししたいと思っています。このブログでも書かせていただいておりますが、日本人の文化、伝統、価値観、倫理観は世界的にも大変高く評価されています。そのことを自覚して、子供たちにしっかりと引き継ぐことが大切だと思っています。礼儀正しさ。規律、秩序。治安の良さ。勤勉、仕事への責任感、仕事への誇り。謙遜、親切、思いやり。サービスの質の高さ。清潔さ。目先の損得で行動しない。など、あげればきりがありません。これらの価値観は神様を中心とした日本人の生き方から来るものだと思っています。

キリスト教ではなく、神様を中心とした生き方

そして、最後に「キリスト教ではなく、神様を中心とした生き方が大切」ということをお話ししようと思っています。このセミナーの殆どの参加者はクリスチャンの方だと思いますが、大切なことはキリスト教をやることではないというお話をしたいと思っています。キリスト教を通して神様を中心とすることを体験した方はキリスト教が大事だと思うでしょう。同じように、他の宗教やセミナーなどを通して神様を中心とすることを体験した方は、その宗教やセミナーが大事だと思うのは無理もないことだと思います。でも、大切なことは神様を中心とすることだと思います。自分のグループや宗教だけが正しいと考えるところから排他性や分裂が起こりますが、それはむしろ神様の願いや思いに反することではないでしょうか。

そんな話をしようと思っています。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。大切なことは神様を中心にすることだと思います。

新約聖書 使徒の働き 5章17~25節

そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と言った。彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。

一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやった。ところが役人たちが行ってみると、牢の中には彼らがいなかったので、引き返してこう報告した。

「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもおりませんでした。」 宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞いて、いったいこれはどうなって行くのかと、使徒たちのことで当惑した。

そこへ、ある人がやって来て、「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています」と告げた。

使徒たちは投獄されても止めなかった

文字通りこのようなことがあったのか、私自身は体験したことがないので分かりません。このようなことはあるという人もいれば、ないという人もいます。でも、神様にはそのようなことが出来ないとは私は思いません。いずれにしても、ユダヤ教の慣習や教えとは違うことを教える使徒たちのところに多くの人々が集まることをねたんだ宗教指導者たちは使徒たちを投獄したにも関わらず、使徒たちは止めるどころか益々教えたということだと思います。

神様を中心にすることが原動力

神様を中心とした生き方が使徒たちの原動力だったのではないかと私は思います。ユダヤ教もキリスト教も、またどんな宗教もそれ自体が目的ではないはずですが、それ自体が目的となる時に様々な弊害が起こってくるように思います。大切なことは神様を中心とすることだと思います。それが私たち人間の生きる意味であり力だと思います。それを失うなら、宗教も腐敗し、命を失うことになってしまうのではないでしょうか。