神様を中心とした子供の教育

宗教教育ではなく、神様を中心とした生活を教える

金曜日のテーマは「子供の教育」です。宗教教育ではなく、神様を中心とした生活を子供に教えて欲しいと私は思います。子供が神様を中心とした生活を身に付けるなら、それは子供の一生の宝となり、幸せな生活の土台になると思います。ポイントは神様を中心とすることです。

手段と目的を混同しないでください

それは単に聖書の知識を教えることではありません。また神学的な知識を教えることでもありません。讃美歌をたくさん歌うとか、お祈りが上手に出来るということでもありません。それは悪いことではないかもしれませんが、手段であって目的ではないことをはっきりと見極めていただきたいと思います。大切なことは実際の一つ一つの生活、判断において神様を中心とすることです。それが救いであり、それが幸いであり、それが問題の解決だと思います。

問題は自己中心だと思います

子供でも自己中心はあると思います。でも、それは身に滅びをもたらすと思います。最近ではいじめの問題を初め、少年少女の凶悪犯罪のニュースを目にすることも多くなっているように思います。いろいろな原因が考えられると思いますが、すべての問題の究極的な原因は自己中心だと言ってよいのではないでしょうか。

自己中心を退けて、神様を中心とする

場合によっては、子供の気持ちも分からないではないかもしれません。共感してあげることは大切だと思います。でも、自己中心は悪いことだとはっきりと子供に教えることが大切ではないでしょうか。そして、誰にでも自己中心の誘惑はあると思いますが、それを自ら退けて、神様を中心とするように教え、励ますことが大切だと思います。

有益な手段

神様を中心にすることが目的なんだということがはっきりすれば、その目的を良く果たすためには何をすれば良いかを考えることができると思います。それは手段を考えることですが、毎日聖書を読んで神様に祈る習慣を身に付けさせることは大変有益な手段だと思います。子供の読む力に合わせて、子供用の聖書を用意してもよいかもしれません。毎日読んで祈ることが習慣になるまでは、毎日一緒に読んで祈ることが有益だと思います。子供まかせにしてはいけないと思います。

目的から目を離さず、有益なことは何でも

時には教会に行くことも有益かもしれません。クリスチャンになる必要はないと思います。目的は神様を中心とした生活をするためです。教会に通うことが目的にならないように注意してください。目的から目を離さないようにしましょう。この目的を良く果たすことができるのであれば、柔軟にいろいろと試してみたら良いと思います。このブログもそのために役に立つようであれば、子供と一緒に読んでみるのも良いと思います。それでは、今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 ルカの福音書18章35~43節

イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。

神様に叫び求める

エリコというのはエルサレムにほど近い町です。もうエルサレムは目の前に近づいていました。イエスとその弟子、その取り巻きの人はおびただしい数になっていたようです。物ごいをしていた盲人は、それがナザレのイエスだと分かると、「ダビデの子のイエスさま」と大声で叫び始めました。ナザレのイエスの噂をもう聞いていたのでしょう。「ダビデの子」とは、イスラエルの英雄ダビデ王の子孫という意味ですが、人となった神様を指していると思います。やがてダビデ王の子孫に人となった神様が生まれると言われていたのです。

信仰とは神様を中心にすること

盲人はイエスに何をしてほしいのかと問われ、「主よ。目が見えるようになることです」と答えました。イエスを人となった神様と知り、イエスにはそれが出来ると知っていたので、そのように求めたのでしょう。彼はたちどころに目が見えるようになりましたが、イエスは「あなたの信仰があなたを直した」と言われました。このように神様に頼ること、神様に信頼すること、神様に求めること、それは人間を中心にしないで、神様を中心にすることであり、それをイエスは信仰と言われたのだと思います。人ではなく、神様を中心としましょう。