子供に身に付けさせたい資質。あと3つ

「思いやり」、「謙遜」、「勤勉」

金曜日のテーマは「子供の教育」です。子供に身に付けさせたい資質について、先週、「従順」と「誠実」について書きました。今日は「思いやり」、「謙遜」、「勤勉」について書いてみたいと思います。

「思いやり」、自分のことだけでなく

「思いやり」とは、自分のことだけでなく、人のことも考えてあげることです。それは正しいことであり、神様に喜ばれることだと子供に教えることは良いことだと思います。それは幼児期からでも教えることができると思います。たとえば、自分が遊んでいるおもちゃでお友達も遊びたい時、それをお友達に貸してあげることは良い事だと教えると子供はそうしようとします。

自分からそうしようとする子供を育てる

それは無理矢理させることではありません。それは良い事であり、神様に喜ばれる事だと教え、子供が自分でそうしようとすることが大切だと思います。そのように自分のことだけでなく、お友達の事も考えることができる「思いやり」を身に付けさせることは大切な教育ではないでしょうか。

何が正しいことなのか大人が教える

続いては「謙遜」です。自らの過ちを正直に認め、謝ることができることは「謙遜」だと思います。最近は自分の過ちを認めることができず、謝れない子供が増えているのではないでしょうか。「謙遜」もまた自然に身に付くのではなく、何が正しいことなのか、何がいけないことなのか、大人がリーダーシップを発揮して子供にはっきりと教えて初めて子供は覚えるのだと思います。

正しいこと、いけないことを明確に示す

子供がいけないことをした時、自分は悪いことをしたと認めることは良いことであり、ごめんなさいと謝れることは神様に喜ばれることだと教えてください。そのように出来た時には沢山ほめてあげてください。こうやって自らの過ちを正直に認めて謝れる「謙遜」な資質を子供は身に付けると思います。

「勤勉」は良い事だと教えましょう

「勤勉」も小さい時から身に付けさせてあげたいと思います。子供の成長に合わせて、何か仕事を与え、怠ることなく、その責任を果たすことは良いことであると教えることができると思います。

教えなければ自然に出来るようにはならない

以上、先週につづいて全部で5つの資質について書いてみました。共通して言えるポイントは、何が正しいことで、神様に喜ばれることなのかをはっきりと教え、それが出来た時にはほめてあげることだと思います。意外に多いのは、そのように明確に教えていないのに、子供が正しく育たないと言う親の声です。教えていないのに自然に出来るようになる訳ではありません。子供に何が正しいことなのかを教え、子供が自分でそれを守ろうとする態度を育てることが大切だと思います。それでは、今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 ルカの福音書18章1~8節

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに、『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

いつも祈るべき、失望してはならない

これはパリサイ人、律法学者、体制側の人たちとの対立が明らかになり、イエスご自身の十字架の死も近づく中で、弟子たちに教えたイエスの言葉です。そのような試練に遭遇しても、いつでも祈るべきであり、失望してはならないということを教えたのでしょう。このたとえ話で強調されていることは、しつこく祈る、祈り続ける、必ず聞いてもらえるということでしょう。目には見えませんが、神様は生きておられます。「神様。あなたを待ち望みます。」と祈ってみましょう。神様を見失うことがないように、毎日毎日、神様に心を向けて祈りましょう。

神様が全てを正しくさばかれる

「さばき」とは裁判のことです。全てを支配しておられる神様が全てのことを正しく裁かれる時が来るとイエスは教えていると思います。それは「人の子」、つまりイエスご自身が再びこの世界に帰って来られる時だということなのかもしれません。その時、地上に信仰が見られるでしょうかとイエスは心配されているようです。信仰とは、キリスト教徒になるということではなく、神様を待ち望み、神様に祈り求め、神様を中心とした生活をするということだと思います。

日本人は神様の民

その時、神様を待ち望んでいる人は少ないのでしょうか。本来、日本人は神様を中心とした生活をする民、つまり、神様の選民だったのだろうと思います。「大和民族」という言葉がありますが、ヘブライ語として読むと、「ヤマトゥ」とは、「ヤー」(神様の)、「マトゥ」(民)という意味だそうです。仮に世界中の人たちが神様から離れたとしても、日本人は神様を待ち望む民でありましょう。