【恋愛・結婚】金銭感覚に表れるその「人となり」

お金の使い方にはその人の価値観が表れるものでしょう。恋愛、結婚においても、お金は重要な問題だと思います。仲人でライターをされている鎌田れいさんの「婚活市場で『奢らない』男の評価はこうも低い—年収1千万のイケメンを彼女が見限ったワケ」という記事から一部ご紹介いたします。

「自分にはおカネを使っても、人には使わない」

「彼との結婚は考えられなくなりました。またお見合いを再開しようと思います」佳恵(38)は開口一番こう言った。「自分にはおカネを使えるけど、人にはおカネを使えない。ケチなんです。自分が払った金額と同等の額を私も払って当然だと思っているんですね、彼は」

金銭感覚の違いを思い知らされた″出来事″

それは、ふたりが出会ってから3カ月目の記念日のことだった。特別な日なので、彼が都内にある、いつもよりも値段の高いシティホテルを予約していた。夕方チェックインして、まずは2人で部屋に行き、荷物を置いて外に夕食を食べに行くことになった。佳恵が外に出る身支度をしていると彼が言った。

「俺、財布、持っていかなくていいよね」

その言葉を聞いて、カチンときた。記念日の食事も私に出させる気なのか。

おカネもまた相手への思いやり

佳恵は言った。「彼は、私の何倍も年収がある。それなのに私に対等な金額のおカネを毎回出させる。私って、そんなにおカネを払う価値がない女ですか?」

これは、佳恵に価値があるかないかの話ではない。結局、相手への思いやりはおカネの支払いにもつながるのではないか。男女の付き合いの中で、男がすべて奢るのか、割り勘にするのかは、人によって考え方がさまざまだ。ただ、おカネの払い方や使い方というのは、そこにその人の性格や考え方がそのまま出てしまう。金銭感覚が違う相手との結婚は、どちらかがよほど譲歩しないかぎりは難しい。(記事からの要約引用は以上です。全文は元記事をお読みください。)

神様を中心に考える

お金の使い方にはその人の価値観が表れるものだと思います。何に価値を見出しているのか。何を大切にしているのか。人は大切にしているものにはお金を使いますが、大切にしていないものにお金を使いたくないでしょう。自分の欲求を満たすものばかりにお金を使うのではなく、神様の目から見た時に価値あるものにお金を使うことが大切だと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は宗教の戒律が記された教典ではなく、神様を中心にして生きようとしたユダヤ人の記録であり、実は私たち日本人の価値観のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心とした日本人の価値観に触れるために聖書を読んでみてください。

新約聖書 マタイの福音書 26章57~68節

イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。

さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。

そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙っておられた。

それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。どう考えますか。」

彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」

何も言わないイエス

イエスは捕らえられ、大祭司カヤパの所で不正な裁判を受けました。それはイエスを死刑にするための裁判であり、求められたのは真実ではなく偽証でした。とても裁判と呼べるものではなかったことが分かります。しかし、イエスは何も言いませんでした。神様を中心にして、全てを受け入れていたのではないでしょうか。

イエスはメシヤであると言った

ただ、大祭司が「あなたは神の子キリストなのか」、ユダヤ人が太古の昔から待ち望んでいた、神様から特別な権威を与えられたメシヤなのかと問われ、その通りだと答えました。そして、やがてメシヤが神の右の座に着き、雲に乗って来るのを見ることになると言いました。

何が神への冒涜なのか

なぜ、これが神への冒涜となるのでしょうか。イエスは自らを神と言った訳ではありません。メシヤだと言っただけです。ただ、大祭司もユダヤ教の指導者たちも、イエスをメシヤとして受け入れず、神様を中心にしようとはせず、自分たちを中心にしたのだと思います。

 

いかがでしたか

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