同じ紋章
日本人の信仰と文化には古代ユダヤ系渡来人の影響があると私は思っています。坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」から日本の皇室の紋章とユダヤ王家の紋章が同じであるという驚くべき事実をお伝えしたいと思います。月曜日のテーマは「日本とイスラエル」です。
イスラエルにある菊の紋
伊勢神宮の灯籠にはダビデの星が刻まれているが、イスラエルのエルサレムの城壁には、なんと天皇家の御紋(十六菊家紋)である菊の紋が刻まれている。この菊の紋はエルサレムの七つの門の一つ、ヘロデ門といわれる門の上についている。この菊の紋はユダヤ王ヘロデの王家の紋章であった。
ヘロデ王は今から約二千年前、ちょうどイエス・キリストの時代の王様である。壮麗なエルサレムの神殿を初め、多くの建築物を築いた偉大な王様なのである。第二神殿時代と呼ばれるユダヤ王国の紋章と日本の皇室の家紋が同じなのは、大変不思議なことだ。
日本では鎌倉時代初期に、後鳥羽上皇がこの菊の紋を天皇家の家紋として用いたのが始まりだという。中東においてはユダヤに限らずシュメールや古代バビロニアの王朝などで家紋として使われた図柄らしい。
イラン・イラク戦争の時、サダム・フセイン大統領が十六菊家紋の指輪をしていた。西欧のジャーナリストが、日本の皇室の家紋と似ていることを尋ねたところ、フセイン大統領は「この紋章は、イラクの祖先が世界最古の文明を築いたシュメール王朝時代に用いていた王家の家紋だ」と答えたという。古代王朝の復活を夢見ていたフセイン大統領が、シュメール王国の紋章を用いて自分の権威を高めようとしていたのだろう。
マークや紋章は偶然似てしまうということもよくあるが、花びらが十六枚の菊が用いられているのである。偶然にしては出来過ぎではないだろうか。現在、世界中の王家のなかで、菊の紋章を家紋としているのは、日本の皇室だけだという。(本からの抜粋は以上です。)
日本とイスラエルは無関係ではない
これは日本の皇室が古代ユダヤ王国と何らかの関係があることを示す一つの証拠ではないかと私は思います。日本人の信仰、文化、伝統、高い倫理観などは古代ユダヤ人の信仰、聖書の信仰と無関係ではないと思います。
神様を中心とした生活
私は全ての日本の皆様に自己中心ではなく、神様を中心とした生活を取り戻していただきたいと願っていますが、そのためにも聖書を読むことが大切ではないかと思っています。聖書と言えばキリスト教をイメージする方が多いと思いますが、キリスト教ではなく、太古の昔から日本人が崇めて来た神様をよく知るために聖書を読んでいただきたいのです。それでは、今日も聖書の続きをご一緒に読みましょう。
新約聖書 ルカの福音書22章39~46節
それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
過越の食事の後、イエスは弟子たちといつものようにオリーブ山に行った
オリーブ山からは、ケデロンの谷を挟んで、向かいの丘の上に荘厳なエルサレム神殿が見えたと思います。イエスはそこで弟子たちから少し離れた所に行って祈りました。
この杯
「この杯」とは、人類の身代わりとなって、その代価を支払って、人類を神様のもとに買い戻すための十字架の死を指していると思います。それがイエスにとってどれほど苦しいものであったのかということを思わされます。それほどの大きな犠牲をイエスは私たちのために支払ったことを思います。これは神様が私たちに示してくださった愛だと聖書には記されています。
神様の愛に応える人生
神様を中心とした生活をするとは、この神様の愛に応えることだと言うことができると思います。日本人の価値観、倫理観はこの神様の愛を土台としているものであったと私は思っています。人に親切にすること。秩序を守ること。心から人々をもてなし、サービスし、仕えること。私たちは自分で生きているのではない、生かされているんだという考え方。感謝すること。それは世界の人々からは驚かれる日本人の特質のようですが、私たち日本人にとって当たり前のことではないかと思います。
それが日本人の心
なぜ私たちにとって、それは当たり前なのでしょうか。それは神様が私たちを愛して、私たちのために文字通り命まで捨ててくださったことを日本人は知っていたからだと思います。このように神様の愛をいただいている私たちが人に仕えること、親切にすることは当たり前のことだと思います。
私の危機感
でも、そのような日本人の特質が失われ、日本人も打算的になり、自己中心になっていくことに私は危機感を感じています。今一度、神様が私たちにこのような愛を注いでいることを知る必要があると私は思って、「日本人の信仰と聖書について考える会」を始めました。神様の愛に応えて生きましょう。それはクリスチャンになるとか、何かの宗教を信仰することではないと思います。それは人間として当たり前の生き方だと思っています。