神様を中心に、それぞれが深められて行くもの

神様を中心とした生活は順調でしょうか

神様の善悪、それは自分の良心で判断することができると思いますが、自分の好き嫌いではなく、神様の善悪を中心にして生活することによって、馬鹿らしい生活から守られますし、少しずつではあるかもしれませんが、成長することができますし、何よりも心がすっきりとして、喜びと平安のある人生を生きることができるようになると思います。私はそうでした。皆様の神様を中心とした生活はいかがでしょうか。何か質問があれば、どうぞ遠慮なくお知らせください。そのためのサポートもしていきたいと思っています。

人となった神様の記録

新約聖書と呼ばれる27巻の古文書には、神様が人となってこの地上に来てくださり、私たちの罪の身代わりとなって十字架につき、これが間違いなく神様の働きであることを示すために3日目によみがえられたという出来事が複数の証人たちによって記されています。皆さんに知っていただきたいことは、これはキリスト教の教えではないということです。これらの複数の古文書の記述とその信憑性から言うなら、これは歴史上の事実の記録だということです。

直接の弟子たちはクリスチャンにはならなかった

そして、これらの古文書の記録を見てみると、この方を神様として受け入れてクリスチャンになった人々もいましたが、この方を神様と受け入れてもクリスチャンとはならなかった人々もいたことが分かります。それはおもに、この人となった神様、日本語訳ではイエスと記されている方の直接の弟子たちですが、彼らはクリスチャンにはならなかったようです。彼らはユダヤ人でしたが、クリスチャンにはならず依然としてユダヤ人としての生活様式を守ったようです。

彼らは日本にやって来た

実は彼らの末裔がはるばるシルクロードを通って、3世紀頃には日本にやって来たと考えられることが分かっています。もちろん、日本人のルーツがすべてユダヤ人だということではありませんが、日本人の信仰、文化、精神性に大きな影響を与え、それが現在にも及んでおり、日本の文化とユダヤの文化には多くの共通点が見られます。詳しくは「日本人の信仰と聖書について考える会ホームページ」の「日本とイスラエル」のページをご覧ください。

日本人がクリスチャンになる必要はありません

ですから、このイエスという人物を人となった神様として受け入れ、神様を中心とした生活を送るのは、決してクリスチャンだけではないということです。今でもユダヤ人はイエスを人となった神様として受け入れてもクリスチャンにはならず、メシアニック・ジューと呼ばれ、ユダヤ人のまま生活しているように、私たち日本人もクリスチャンにはならないで、日本人のまま神様を中心とした生活をすれば良いということだと思います。

日本人の信仰のルーツとしての聖書

どうぞ日本人として、日本教徒のまま神様に心を向けて祈り、私たち日本人の信仰のルーツとして聖書と呼ばれる一連の古文書を読んでいただきたいと思います。そこで今日は、しばらく中断していた聖書の続きを読んで、また私が感じたことを書いてみたいと思います。どうぞ皆様が聖書を読む際の参考にしていただければと思います。

新約聖書 ルカの福音書7章36~50節

「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、『この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから』と心ひそかに思っていた。」

このパリサイ人はどういう思いでイエスを食事に招いたのでしょう

「パリサイ人(びと)」というのは、ユダヤ人ですが、聖書の専門家、宗教家で、特に旧約聖書に収めらている、いわゆるモーセの律法を始め、それ以外の聖書には収められていない様々な律法を厳格に守る生活様式を自らもし、ユダヤ人にも指導しているパリサイ派というグループに所属する人たちのことを指しています。その中のあるパリサイ人が神様ではないかと噂されるイエスをいっしょに食事をするために招いたということですが、どういう思いで招いたのかなあと私は思いめぐらしています。好意的だったのか、それとも反対に疑りの気持ちがあったのか。半信半疑という可能性も考えられるかもしれませんね。

ルカの福音書のつづき

「するとイエスは、彼に向って、『シモン。あなたに言いたいことがあります』と言われた。シモンは、『先生。お話しください』と言った。『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。』 シモンが、『よけいに赦してもらったほうだと思います』と答えると、イエスは、『あなたの判断は当たっています』と言われた。そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。『この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』 そして女に、「あなたの罪は赦されています』と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。『罪を赦したりするこの人は、いっただれだろう。』 しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。』」

その思いはどんな思いなのか

もし、この女がイエスにしている行為を私がされたとしたら、ちょっと待って、止めてくださいと言うか、やっぱり戸惑うことでしょうね。しかも、罪深い女とありますので、遊女だったのかもしれません。そのような雰囲気の女性にこのような行為をされることをちょっと想像してみてください。でも、イエスはその心を見ていたんだろうと思います。この女はどこかでイエスの噂を聞いたのでしょう。もしかしたら神様ではないか。それで居ても立ってもいられずに、イエスのところにやって来た。その心は神様を求めている心だったんだと思います。

この女の思いを信仰と言っています

イエスはパリサイ人のシモンにそのことを教えようとしているようです。思いがなければ、行いは出て来ないでしょう。でも、この女は本当に罪が赦されたという喜びでイエスのところにやって来たのでしょうか。私はそうではなく、良く分からないけど、とにかくイエスの所に行きたいと思ってやって来たのではないかと思います。でも、イエスはこの女に『あなたの罪は赦されています』、『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。』と言ってくれました。

神様を中心とした生活でそれぞれが深められて行く

私たちも初めから全部分かっている訳ではないと思います。私も神様を中心にして生活する中で、罪が赦されていること、どんな罪が赦されているのかということも、少しづつ気づかされて来たと思います。どれだけ赦されているかを知れば知るほど、神様の愛を深く感じるようになるでしょうし、それによって神様への愛も深まるでしょう。それは何かの教えを理解するということではなく、やはり私たちが生きることによって深められていく実感のようなものだと思います。神様を中心とした生活は教えではなくライフスタイルですね。そうやって私たちは人格的にも深められ、成長して行くんだと思います。