イエス・キリストはキリスト教なのか
以前は私もそうでしたが、クリスチャンの方はイエス・キリストという名前に大変愛着を持っていて、人々にイエス・キリストを伝えたいと思っていらっしゃるのではないかと思います。でも、殆どの日本人はイエス・キリストと聞けば、キリスト教の布教だと思うのではないでしょうか。すでにこのブログを読んでくださっている方は、もうそういう誤解はないかもしれませんが、皆様はどう思われますでしょうか。
イエス・キリストはキリスト教ではありません
何度でも確認しておきたいと思いますが、イエス・キリストを信じることは、決してキリスト教徒になることではありません。また、イエス・キリストはキリスト教という宗教を始めた教祖でもありません。今から約2千年ほど前、パレスチナ地方のナザレという村にイエスという実在の人物がいたことが複数の古文書の記録に残されていることは事実です。実際はイェシュアという発音だったようです。イエスというのはギリシャ語のイエスースから日本語に音訳されたと思います。複数の古文書の記録によれば、このイエスという人物はユダヤ教徒であったことが分かります。キリスト教という新しい宗教を始めたという記録はありません。
人となった神様によって神様を中心とするライフスタイルが可能になりました
複数の古文書の記録によれば、この人物は人となった神様であり、この方の犠牲の死と復活によって、ユダヤ教徒だけでなく、もちろんキリスト教徒だけでなく、全人類の罪を取り除いたと記されています。これによって、全ての人が人間を中心とした生き方ではなく、神様を中心とした生き方が出来るようになりました。それがどんなに素晴らしい生き方であるか、私自身が身をもって体験して来ましたし、今も体験しています。
ここに全ての問題の解決があります
この地上の生活は楽しいこともありますが、問題もあります。それらの問題を私たちはどう理解したら良いのかも分からないこともあるし、解決しようもないと感じる問題もあります。しかし、神様を中心にした時に、問題の核心が明らかになったり、多くの問題、いや全ての問題と言ってもいいと私は思っていますが、解決されましたし、これからも解決されて行くと確信しています。
神様が本来意図されたライフスタイル
私はこのような神様を中心としたライイフスタイルを全ての日本人に知って欲しいと願っています。これこそ神様が本来私たち全人類に意図されたライフスタイルなんだということを知って体験していただきたいと思って、「日本人の信仰と聖書について考える会」を始めました。それはキリスト教とは関係ありません。むしろ、日本人の神様と関係が深いということをお伝えしたいのです。
私が伝えたいのはキリスト教ではありません
私が伝えたいのはそのようなライフスタイルであって、キリスト教ではありません。もちろん、キリスト教が当たり前である欧米であれば、キリスト教も結構だと思いますが、やはり日本人にとってキリスト教は異国の宗教だと思います。良く言われるように、日本人は無宗教なのではなく、日本教徒と言えるかもしれません。私は日本教徒のままで良いと思っています。キリスト教徒に改宗する必要はありません。大切なことは神様を中心としたライフスタイルだと私は思っています。
イエス・キリストという言葉
私はイエス・キリストという言葉を使うことによって、キリスト教の話をしていると誤解されたくありません。5分でも10分でも、今日のブログで書いたようなことをお話しできれば、その誤解を少しは取り除けるかもしれませんが、逆にそれほどイエス・キリストという言葉にこだわらなくてもいいではないかと今は思うようになりました。
キリストと言えばキリスト教なのか
実は、先日もクリスチャンではない日本人の方々に「大切なことはキリスト教の精神ではなく、キリストの精神なのです。」という内容の話をする機会がありましたが、その質疑応答の際に、「先ほど大切なのはキリスト教ではなく、キリスト教の精神だというお話がありましたが・・・」と質問される方があり、やっぱり日本人にとっては、いくら説明をしても「キリスト」と言えば、もう「キリスト教」と受け止められるんだなあと思ったところです。
誤解を与える言葉は使わない
繰り返しますが、私が伝えたいのはキリスト教ではありません。神様を中心としたライフスタイルです。キリストという言葉を使えばキリスト教だと受け止められてしまうのであれば、なるべくキリストという言葉を使わないで、大切なその中身をお伝えしたい。それが私の思いです。そのためだったら私はいくらでも努力して頭を使いたいと思っています。なぜなら、私の大切な日本人に大切な神様を中心としたライフスタイルを伝えるためなんですから、どんな努力もしたいと思っています。
その「神様」とは、どの「神様」のことを言っているか
それでは、その場合の「神様」というのは、どの神様のことを指しているのかという疑問もあると思います。イエス・キリストではないのか。しかし、それはキリスト教という誤解を与えるので、「人となった神様」と言えば私はそれで良いではないかと思うようになりました。それで本当に正しく神様のことを伝えられていると言えるのだろうか。私自身ずいぶん自問自答しました。その結論は、日本人に限定して言うのであれば、ほぼ正しく伝えられているのではないかと思います。なぜなら、日本人が神様という時、その神様はほぼ聖書の神様である「ヤーウェー」のことを指していると考えることができるからです。詳しくは「日本人の信仰と聖書について考える会」ホームページの「日本とイスラエル」をご覧ください。
「聖書」という言葉はどうか
また、もしかしたら「聖書」という言葉もキリスト教と受け止められる危険性があるのではないかと最近は思っていますが、どうでしょうか。皆様はどう思いますか。そこでこのブログでも「聖書」と言わずに、複数の古文書と言うようにしています。
「クリスチャン」はどうか
「クリスチャン」という言葉もよく考えてみる必要があると思います。その言葉の意味は「キリスト者」とか、「キリストを信じる人」という意味であって、本来「キリスト教徒」のことではないという説明もできるかもしれませんが、常識的には「キリスト教徒」の意味で使われていると思いますし、歴史的に見てもシリヤのアンテオケという異邦人(ユダヤ人ではない人々)の都市で初めて「クリスチャン」という意味の言葉が使われるようになったという古文書の記録から判断すると、エルサレムにいたユダヤ人たちはキリストを信じても「クリスチャン」とは呼ばれていなかったと考えられます。また、現在もユダヤ人でキリストを信じるようになった人は「クリスチャン」とは呼ばずに、あえて「メシアニック・ジュー」と呼ぶことからも、「クリスチャン」という言葉は「キリスト教徒」を指して使われていることが分かります。以上のことから、私は「クリスチャン」という呼び名を使うことに消極的にならざるを得ないと思い始めています。「メシアニック・ジャパニーズ」というような新たな呼び名を作ってもいいかもしれませんが、何か新しい宗教のような印象も受けるし、日本人としては横文字はいかがなものかと思うところもあります。何も特別な名称を作ることもなく、「日本人」で良いのではないかと思いますが、皆様はどう思われますでしょうか。
日本教徒のままの神様中心のライフスタイルを考えてみていただきたい
いずれにしましても、私は日本人は日本教徒のまま、キリスト教に改宗することなく、神様を中心にしたライフスタイル、それは本来の日本人のライフスタイルだと私は思っていますが、そのような神様を中心としたライフスタイルを取り戻すことによって、本来神様が意図された素晴らしい生き方ができるようになると思っています。それは現代においても決して時代遅れのライフスタイルだということではなく、むしろ現代の私たちが抱える全ての問題の解決がここにあるということを全ての日本人に知っていただきたいと思っています。どうぞ日本人としての神様を中心としたライフスタイルについて真剣に考えてみていただきたいと思います。