企業の不正の問題。解決は神様にあります

聖書の中心的メッセージはこれです

昨日のお約束通り、今日は聖書の中心だと私が思う内容について書いてみたいと思います。すべて聖書に書いてあることですので、ご自身で読んでいただけば良いことでもありますが、ピンポイントでまとめてみたいと思います。そして、それが実際の今の私たちの生活に大いに関係があるということを最後の部分で書いてみたいと思いますので、どうぞ最後まで読んでいただければ幸いです。

イエス・キリストはキリスト教の教祖ではありません

ご存知の方も多いと思いますが、聖書の中心はイエス・キリストと記されている人物についてのことです。このブログでは何度も書いてきましたが、それは必ずしもキリスト教とは関係ありません。キリスト教の話だと思わないで読んでいただきたいと思います。この人物は決してキリスト教という宗教を始めた教祖ではありません。

イエスという実在の人物です

今から約2千年前、パレスチナのナザレという村にイエスと日本語の聖書で表記される人物は実在しました。イエスという名前はギリシャ語ではイエズス、英語ではジーザスと呼ばれますが、実際にはイェシュアのように発音されたようで、救いという意味の、当時のユダヤ人の間ではよくある名前だったようです。そこでナザレのイエスというような言い方をしないと、どこのイエスか分からないという事情があったようです。

日本語の聖書にはイエス・キリストとありますが

ところで、旧約聖書には人類を救うためにやがて神様が人となってこの世界に来てくださるという預言がありました。それはヘブル語ではメシア、ギリシャ語ではクリストスと表記されていますが、本来の意味は油注がれた者という意味で、神様に特別に清められ、選ばれた者ということを表しているようです。このナザレのイエスがそれだというのが新約聖書のメッセージです。それを短く一言で言うとイエス・キリスト、つまり、このイエスという歴史上の実在の人物が旧約聖書が預言している救い主、人類を救うために神様から油注がれた方、人となった神様だと言っている訳です。それが日本語聖書ではイエス・キリスト、ヘブル語ではイェシュア・メシア、ギリシャ語ではイエズス・クリストス、英語ではジーザス・クライストということです。

このイエスこそが人となった神様なのです

新約聖書はマタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書という記録で始まりますが、すべてこのナザレのイエスという人物こそが人となった神様だということを証言している記録です。そのように本人も言っているし、彼と一緒に過ごした人々も確かにそうであったと言ったことが記録されています。その証拠はあるのでしょうか。実はその証拠が十字架と復活という出来事なのです。イエスは人類の罪を背負い、人類を罪から来る地獄の裁きから救い出すために、自ら十字架の上で神様からの罰を身代わりに受けてくださった。こうしてイエスは確かに死んで墓に葬られた。ところが、旧約聖書に預言され、また、イエス本人も生前に何度も言っていた通り、イエスは3日目に墓からよみがえりました。そして、実際によみがえったイエスに会ったという証言が聖書には記録されています。

十字架と復活は神様が示した証拠です

皆さんはこのようなことが実際に起こったという、この聖書の記録を事実と受け止めることについてどう思われますか。普通はあり得ないことだと私ももちろん思います。でも、天地万物をお造りになった神様にそのようなことができないとどうして思われますか。神様であれば不可能ではないと思いますが、いかがでしょうか。つまり、そういう神様は確かにおられるということです。この十字架と復活という超自然的な出来事に直面する時、そういう神様は本当にいるんだということが分かるのです。

実際の生活に超自然的な力を持つ神様が関係してくださる

これまでは、習慣として初詣をする程度だったかもしれません。また、念のために、罰があたらないようにお願いしておこうということだったかもしれません。苦しい時の神頼みなんて感じだったかもしれません。しかし、神様は実際に死者をもよみがえらせることができるような超自然的な力をもって、私の生活に関わってくださる方である。歴史上そのようなことが実際に起こった。神様はそういうお方だということが分かると、私たちは毎日の生活の中でもっと神様を意識するようになると思います。そして、これまでもお伝えしてきたように、多くの問題が取り除かれることになると思います。

これが日本人の信仰の土台なのです

これは歴史上の事実であり、何かの宗教の教義ではありません。そのような神様は確かに今も生きて働いておられるという証拠です。そして、そのことを知っていたのが秦一族であったということを「日本人の信仰と聖書について考える会」のホームページにも書きましたのでどうぞお読みください。つまり、これは決して私たち日本人にとって新しい教えではないということです。もちろん外国の宗教の教えでもありません。太古の昔から、これが日本人の根底にあった信仰なのです。この信仰こそ日本人の信仰の土台であったことをすべての日本人に知っていただき、毎日、日本人としてこのダイナミックな信仰を取り戻して生活していただきたいというのが私の願いです。

失敗を隠そうとする体質が問題を引き起こす

今朝、ラジオのニュースを聞いていたら、三菱自動車の不正に代表される企業の不正について、その都度、再発防止策が発表されるが、企業の体質が改善されない限り無くならないとある企業コンサルタントが話していました。失敗を隠そうとする企業体質が大きな問題を引き起こしているので、むしろ人間は失敗をする者だという前提に立って、積極的に失敗を報告する企業体質を作る必要がある。そうすることによって、不正を減らすことができるようになると言っていました。

十字架は私たちに罪の赦しを与える

人は本来正しく生きたいと願っている者だと思います。でも、必ず失敗してしまいます。聖書には、正しい人は一人もいない、人の心には生まれながらに罪があるので、正しく生きたいという願いはあっても、結局は悪を行ってしまうと書いてあります。そのような人間は神様の前に罪ある者として裁きを受けなければいけないのは当然だと思います。ところが、その罰を人となった神様が身代わりに受けてくださったのです。それが十字架の出来事です。2千年前に、もう罰は終わったのです。だから、私たちがすべきことは、私は悪くないと主張することではなく、私には罪がありますと告白することなのです。そうすることで、私たちは失敗を少なくし、本来自分が願っている正しい生き方をすることができるようになるのです。

私は罪ある者であるという前提

私は自分の弱さ、罪深さに出会う時、だからイエス・キリストが十字架について死んでくださったということを思い起こします。それは私のためだったことを思い起こします。そうすると、私は自分の弱さをごまかす必要がありません。私はそのような者なのです。驚くに値しません。当然のことなのです。そうやって私は言い訳することなく、自分の弱さと向き合うことができるようになり、それを克服する道が開かれます。しかし、自分の弱さを認めないで隠し続けるなら、私はいつまでもそれを克服できないどころか、益々その状況は悪くなっていくでしょう。イエス・キリストの十字架と復活は私たち日本人の信仰の土台ですが、そこに私の罪の赦しと天国への希望を知ることができるのです。

パンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」の配布を始めました

「日本人の信仰と聖書について考える会」のホームページのインフォメーションのページに掲載していますパンフレット「今こそ伝えたい日本人の心」を昨日から配布を始めました。昨日は宮城県名取市名取が丘1丁目の皆さんのご自宅にお届けいたしましたので、ぜひお読みください。どうぞホームページ、ブログもチェックしてください。また、パンフレットを希望される方はご連絡ください。まず1千万人の日本人にこのメッセージをお届けしたいと思っています。皆様のご協力よろしくお願いいたします。