安心してください。何かの宗教をやらなくても、神様を意識して生活することはできます。
大切なことは、日々神様との関係を深めつつ生活することです。神様との個人的な関係が深められることによって、余計な不安がなくなり、過去の負い目から解放され、本当に自分が願っている正しい生活を送ることができるようになります。
確かに私はクリスチャンになって、初めて神様を意識するようになりました
確かに私の場合、クリスチャンになって、神様をいつも意識するようになって、聖書を読んだり、牧師や他のクリスチャンの話を聞いたりする中で、私は生きていていいんだとか、いつも神様は一緒にいてくれるんだとか、自分の失敗、愚かさ、足りなさ、聖書的な言葉で言えば罪が赦されて、永遠の命が与えられて、天国に入ることができるという確信を持つことができるようになって、昔の生き方とは全く違う生き方ができるようになりました。それが救いということであれば、私は確かに救われました。
クリスチャンにならなくても、その中身はもらえます
これまでは私はクリスチャンにならなければ、そのような喜びを持つことはできないと思っていましたが、そうではないということが分かりました。もちろん、クリスチャンになりたいという方はそれも良いと思います。でも、いろいろな事情でクリスチャンにはなれない、なりたくないと思っている方も多いと思います。そういう方にも神様をもっと深く知っていただいて、神様が与えてくださる救いをご自身のものとして確信していただけるんだということを知っていただきたいと私は思っています。
神様と宗教的な慣習は分けて考えましょう
中には、クリスチャンになることには関心があるんだけど、仏壇はどうするかとか、葬儀はどうしたら良いのかとか、お墓はどうなるんだということを心配される方もいらっしゃると思いますが、神様をいつも意識して生活するということは、そういうこととは関係ありません。それは、それぞれがしたいと思うようにされたら良いと思いますし、私はどちらかと言えば日本人がこれまで大切にしてきたことを尊重した方が良いと思っています。
宗教は人間から神様への一つの応答の形であり、文化です
神様をいつも意識して生きること、神様が与えてくださる喜びをもって生きることは、本来、人間として当たり前のことであり、何か特定の宗教をやることではありません。確かに神様をどのような形で意識するかということで、これまで人類はいろいろな宗教を生み出してきたと思いますが、その形に縛られる必要はありません。もちろん、そこにも人類の英知はあると思いますので、宗教から学ぶという姿勢も大切だと思います。でも、宗教に縛られる必要はないということです。
同じ聖書のメッセージでも西と東でそれぞれの形として発展してきた
大切なことは神様との関係です。聖書はそのことを私たちに伝えているのであって、キリスト教を伝えているのではありません。その聖書のメッセージがローマに伝えられ、ヨーロッパ、アメリカへと伝えられ、それがキリスト教という宗教として発展してきたということです。その一方で聖書のメッセージは東へ東へと伝えられ、古代日本にも伝えられたことを「日本人の信仰と聖書について考える会」のホームページにも書きました。それが日本で発展して今日の日本人の信仰に結びついています。
本質は神様との関係
ただし、日本人の信仰は日本文化の中にその形としては残っていますが、多くの日本人はいつも神様を意識して生活し、その救いと喜びを確信して生活しているかと言えば、その点においては弱くなってしまったと思います。私はキリスト教を通して、聖書を読むようになって、神様との関係を意識して生活するようになって、そのことに気づいた訳ですが、大切なことはキリスト教という形ではなく、神様との関係であり、多くの日本人にとっては異質なキリスト教の形はやらなくてもいいけど、神様との関係は深めていただきたいということをお伝えしたいと思っています。
神様をいつも意識することと聖書を読むこと
どうぞ、今日も祈って、神様が共におられることを意識して生活してみてください。明日は聖書から、その中心だと私が思っている内容について書いてみたいと思います。そして、ご自分でも聖書を読んでみてください。どこにも、これはキリスト教の本だとは書いてないですよ。聖書は宗教に関係なく、すべての人に読んでいただきたいと私は思っています。