日本人の宗教文化に基づく秩序と道徳

「日本と日本人の文化」というサイトでは、日本文化には、仏教(禅)、儒教、そして神道の精神が根付いており、日本人は無意識のうちに、これらの宗教概念に則った思考や行動をし、東日本大震災では世界中の人々に感動を与えることになったと説明して、日本の宗教について以下のように解説していますので、ご紹介いたします。

日本の仏教(禅)

言葉や文字で人に何かを伝えて学ぶのではなく、坐禅による「悟り」を重視します。仏教のこのような思想は、言葉に出さずに自分でものを考え、静かに行動するという、一種の「冷静さ」を生む結果になっています。

儒教

道徳を重んじ、人を敬い、思いやり、人との良好な関係を築くための知恵を私たちに授けています。「上下関係」は私たちが知る典型的な儒教思想による対人関係ですが、私たちはこういう儒教思想を元に、道徳心の基礎を形成しています。

神道

日本固有の宗教(或いは教義)で、自然を崇拝します。私たちは「自然の前では無力である」とよく言いますが、それは自然界が私たちをコントロールしているという根本的な考え方の現れです。自然界で起こったことに対して私たちは無力で、抵抗できないという「悟り」があるからこそ、嘆き悲しみつつ、震災で起こった出来事を受け入れていったのだと思います。(サイトからの引用は以上です。)

日本人の信仰

日本人の秩序と道徳に宗教文化が影響していることは間違いないことだと私も思います。そして、一般的にはそれは仏教、儒教、神道と言われるようですが、日本人自身はそのように意識もしていない、混然一体となった日本人の信仰というべきものではないかと私は思っています。

その中心は神様

そして、その中心は神様を中心にして生きるという信仰ではないでしょうか。この「日本と日本人の文化」というサイトでは神道は自然を崇拝すると説明していますが、「自然」と言われればそんな気もするというのが日本人の信仰だろうと思いますが、私はやはり「神様」を崇拝していると思います。

それは説明ではない

西洋神学や哲学では「神」について説明を試みようとしますが、この「日本と日本人の文化」というサイトでも言っているように日本人は説明で理解しようとしないところがあると思います。漠然とした「何か」という捉え方かもしれません。しかし、現実を受け入れる力、生きる力、その秩序、道徳、尊厳は神様を中心にするところから出て来たものであり、仏教や儒教の教えもその中に取り込み、消化し、一体化しているのではないかと思います。

宗教は違っても神様は同じ

それはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった宗教と全く同じ神学で説明できるものではありませんが、それらの神様と違う神様と言うこともできないと私は思っています。人間は様々な宗教を作って、それぞれの方法で神様を崇拝するかもしれませんが、神様は唯一だと思います。まして、古代日本にユダヤ系渡来人の影響があったとすれば、日本人の神観はユダヤ人の信仰、聖書の信仰の影響を大きく受けていると言えるのではないでしょうか。

この素晴らしい信仰を失わないようにしましょう

いずれにしても、大切なことは何か特定の宗教の立場を主張することではなく、神様を中心にして生きることだと私は思います。日本と日本人の文化には神様を中心とする価値観が色濃くあることを思いますが、私はその素晴らしい文化が失われてしまうことを危惧します。今こそ、その根源である神様に目を留めて生きることを考えていただきたいと思っています。

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 使徒の働き 15章1~5節

さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

彼らは教会の人々に見送られて、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した。

しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。

ヘブル語を使うユダヤ人信者の思い

ユダヤからアンテオケに下って来た人たちとは、ヘブル語を使うユダヤ人で、イエスをメシヤと受け入れ、神様を中心として生きるようになった人たちのことだと思います。また、パリサイ派の者で信者になった人々というのも、ヘブル語を使うユダヤ人で、イエスをメシヤと受け入れ、神様を中心として生きるようになった人たちのことだと思います。

異邦人もユダヤ教徒になるべきだとする主張

彼らはユダヤ人ではない人々がイエスをメシヤと受け入れて、神様を中心として生きるようになったことは良いことだと認めましたが、彼らにも割礼を受けさせ、モーセの律法を守らせるべきだと主張しました。つまり、単に神様を中心して生きれば良いのではなく、ユダヤ教徒になる必要があると主張しました。

大切なことは神様を中心にして生きること

ユダヤ人がユダヤ教徒のまま、イエスをメシヤと受け入れて、神様を中心として生きるようになることは良いことだと思います。しかし、ユダヤ人でない人までユダヤ教徒になる必要はないと思います。異邦人は異邦人のまま、それぞれの国の文化や宗教を大切にしながら、ポイントは神様を中心にして正しく生きることだと思います。

ユダヤ教徒になることではない

もちろん、ユダヤ人の文化、聖書の信仰について、ユダヤ人から学ぶことは、神様を中心として生きる上で、大変参考になることがあると思います。また、大いに尊敬を払うべきだと思います。中にはユダヤ教徒になる人もいるかもしれません。それはそれで良いと思いますが、ユダヤ教徒にならなければいけないということではないと思います。

キリスト教徒になることでもない

現代では、立場が逆転してしまって、イエスをメシヤとして受け入れて、神様を中心にして生きるなら、クリスチャンにならなければいけないという主張がキリスト教側からされるとすれば、全く同じ問題が起こっていることになると思います。クリスチャンになる人もいるかもしれませんが、ならなければいけないということではないと思います。

信仰と宗教の混同

いつの時代でも、信仰と宗教はこのように混同されやすいのだろうと思います。しかし、大切なことは神様を中心にして生きることであり、それぞれの宗教の立場を主張することではないと思います。宗教は文化ですから、それぞれ参考にしたら良いと思いますし、尊重すべきだと思います。しかし、神様を中心にして生きることは文化ではないと思います。人間としてのあるべき本来の姿だと思います。