日本人の優れた精神性

日本人の素晴らしさを紹介している「日本と日本人の文化」というサイトを見つけました。2011年の東日本大震災をきっかけに日本人の素晴らしさに目を向けるようになり、紹介したいと考えるようになったそうです。今日はその中から「我慢の精神」という記事をご紹介したいと思います。

「我慢」の精神

(東日本大震災の際に)諸外国のメディアで、最も多く使われた日本語の一つは、「Gaman(=我慢)」です。

震災で避難所生活を余儀なくされた人々は、悲観的な現実に対して、非常に我慢強い態度で過ごしていました。

自分が空腹でも、子供や老人たちに水や食事を優先に分け与えるといった姿、また燃料を得るために長蛇の列に整然と並び、自分の順番を待つ姿には、「我慢」という言葉がぴったりです。

しかも、日本人の持つ「我慢」という言葉には、「美しい精神」という意味合いが含まれているのです。

これが、海外メディアが注目した大きなポイントです。

元々「我慢」という言葉は、仏教由来の言葉です。

英語版ウィキペディアで調べてみると、「Gaman(=我慢)」とは「明らかに耐え難い状況に対して、忍耐と尊厳をもって辛抱すること」という趣旨の説明があります。

英語で「ガマン」を意味する単語に「Endureance」「Patience」といった言葉がありますが、これらの言葉にはいずれも「尊厳」という意味は含まれていません。

諸外国で「我慢する」こととは、ダイエット中に美味しい食事を我慢する、という程度のことで、そこに尊厳や美徳という概念はないのです。

日本人にとって、「我慢」の精神に宿る美しさを私たちは普段から社会にいながら、無意識に学んできていて、それが震災時の行動に、自然に現れたのだと思います。

日本人は我慢強い

日本人は我慢強いということだと思います。日本人には、それは良いことだという価値観があると思います。我慢が足りないことは、自己中心か人格的に未熟だと考えられるのではないでしょうか。また、我慢強さは一日で身に付く訳ではないと思います。このような価値観の中で時間をかけて我慢強さを身に付けていくのだと思います。

神様を中心とした生き方

私はこれも神様を中心とした生き方だと思います。こういうことを日本人は理屈ではなく、宗教的な学習ということでもなく、長い文化の中で大切にしてきたということだと思います。だんだん我慢ができない子供や大人が増えて来てはいないでしょうか。我慢強さを身に付けることは良い事だと思います。それは神様に喜ばれることだと私は思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様に喜ばれる生き方は何かと考えたいと思います。

新約聖書 使徒の働き 6章8~15節

さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。

しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。

また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」

議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。

イエスの弟子たちに反対した人々

クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々とあるので、このリベルテンの会堂に属する人々とは、ギリシヤ語を使うユダヤ人で、この時、エルサレムにいた人たちだったと思います。彼らもイエスの弟子たちを中心とした人々のことを知っていたのでしょう。

ユダヤ教の指導者だけではなかった

知っていたどころか、イエスの弟子たちの共同体の世話をしているステパノと議論したということですから、その主張もある程度知っていたということだと思います。しかし、リベルテンの会堂に属する人々はその弟子に加わろうとはせず、それに反対でした。イエスとその弟子たちに反対していたのは決してユダヤ教の指導者たちだけではなかったということだと思います。

神様を中心とした生き方はモーセと神を汚すことではないはずです

どんな議論がされたのか、具体的に記されていないので分かりませんが、彼らの主張は「モーセと神をけがすことを言っている」、「神殿と律法に逆らうことを言って、モーセが私たちに伝えた慣例を変えようとしている」というようなことだったのでしょう。しかし、神様を中心にした生き方は決してモーセと神を汚すことにはならないはずだと私は思います。

宗教が陥りやすい問題

もともとモーセも律法も、そして神殿もユダヤ教も神様を中心として生きることを教えていたんだと思います。でも、いつのまにかその慣例が中心となり、神様の思いや願いから離れてしまうといいうことはあり得るのではないでしょうか。イエスの教えたことを読むと、それが当時のユダヤ教の問題であったし、また、いつの時代にも宗教が陥りやすい問題ではないかと思います。

人間の問題でもある

宗教だけではないかもしれません。私たち人間は皆、形や形式、慣例を守ることが中心となり、本来の神様の願いや思いから離れてしまうという危険性を持っているのではないかと思います。そういう意味では文化も慣習も宗教も諸刃の剣なのかもしれません。それによって神様を中心とした生き方を引き継ぐことができると同時に、それを守っていれば良いということで、神様の願いから離れてしまうということもあり得るということではないでしょうか。