キリスト教を取り込まない「日本文化」の力(1)

堀井憲一郎氏の記事を紹介します

「キリスト教を絶対に体内に取り込まない『日本文化』の見えない力」と題する堀井憲一郎氏の記事を友人がフェイスブックでシェアしてくれたので読みました。皆さんも読まれましたでしょうか。たぶん堀井氏はクリスチャンではないと思いますが、よくクリスチャンでない方にはキリスト教について的外れな指摘を感じるものですが、キリスト教会側の思いもだいたい正しく捉えていらっしゃると感じました。

概ね同感です。でも私は少し違う分析をしています

また、日本文化にはキリスト教を受け入れない見えない力があるというご指摘には私も同感ですが、なぜそうなのかという分析については、私は日本人として、また実際にクリスチャンとして20年以上生活して来る中で堀井氏とは少し違う思いがあります。今日は堀井氏の文章を紹介しながら、私の考えを書いてみたいと思います。

以下、堀井氏の記事より

日露戦争の勝利を転機に、クリスマスを「西洋気分を味わいながらはしゃぐ日」に変えた日本人。そして大正年間に入り、日本の風俗の中にクリスマスは完全に定着していく。同時に、キリスト教の宗教的な側面は断固として拒否しつづける日本文化の目に見えない力が浮かび上がってくる。このように堀井氏の文章は始まります。

断固拒否しているという程の強さは感じませんが

後ほど、もう少し私の考えを述べますが、私は、「キリスト教の宗教的な側面は断固として拒否している」と言うよりは、日本文化はキリスト教の宗教的な側面はその程度にしか評価していないということではないかと思っています。堀井氏の文章を続けたいと思います。

クリスマスは子供のためのもの

あくまで「可愛い子供たちのお楽しみ会」というのが教会でのクリスマス会の様子であり、大人たちは微笑ましくそれを見守る、という形になっている。大人がその輪に入るときは、童心に帰って、つまり子供と化して入るばかりである。(中略)これも、「キリスト教祝祭の外側だけ受け入れて、その中身は受け入れない」日本方式のひとつであろう。(中略)非キリスト教日本人からすれば、べつだんこれで子供がキリスト教徒になるわけではないから楽しいならいいだろう、ということである。(ここまで堀井氏の記事)

キリスト教徒になるわけではない

私は中身もある程度は受け入れているのではないかと思いますが、「べつだんキリスト教徒になるわけではないからいいだろう」というのは、当たっていると思います。それが日本人の感覚ではないでしょうか。堀井氏の文章を続けましょう。

キリスト教徒にならないのは日本人にとって普通

キリスト教会側としては、子供のころから通わせるとひょっとしてキリスト教徒が増えるのではないかという目論見があるのだろう。数字から見るなら、日本人側の判断のほうが合っている。子供のころにキリスト教教会に通ってもべつだんキリスト教信者になるわけではない。それは〝ミッション系の中高一貫校〟に6年間通い、キリストの言葉に日々触れていようと、キリスト教に転向する者がほとんど存在しないのと同じである。(堀井氏の記事からの引用はここまで)

私は今年の1月にアンケートを行いました

私の実施したアンケートからは、日本人はある程度中身も良いものだと思っているように思います。にもかかわらず、キリスト教徒にはならないという日本人の姿が堀井氏の文章からも浮かび上がって来ます。それでも聖書の言葉に触れる機会があったのだから、それで良いではないかと私は思いますが・・・。

大切なことは神様を中心とした生活をすること

私自身、20年以上日本でクリスチャンとして生活する中で、キリスト教徒になるということが、日本社会の中で、特に家族の中では、いかに受け入れられないことかを実感し、その理由も他の国とは違う事情があることが分かってきました。そして、大切なことはキリスト教徒になることではなく、神様を中心とした生活をすることだと思うようになりました。そのことを全ての日本人に知っていただいて、聖書を読みつつ生活していただきたいというのが私の願いです。堀井氏の文章の続きは、また明日取り上げます。それでは今日も聖書の続きを読みましょう。

新約聖書 ルカの福音書23章32~38節

ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

イエスは私たちの救いのために十字架についた

こうして人となった神様であるイエスは人類の罪の身代わりとなって、十字架についたことが聖書には記されています。ここにはユダヤ教の指導者たちでさえイエスが「他人を救った」ことを認める発言をしたことが記されています。「自分を救え」と言う言葉に、もちろん神様ですから自分を救うことは可能だったでしょう。しかし、イエスはそうしませんでした。人類の救いのために十字架から降りなかったのだと思います。

神様の愛

イエスは「父よ。彼らをお赦しください。」と祈りました。私たち人間には全く驚くべきことですが、憎しみを持ってイエスを十字架につけた者の赦しをイエスは祈っているのです。このような愛を人はもともと持っていないでしょう。これが神様の愛だと思います。私たちにはこのような神様の愛が注がれていることを私たちは知ることができます。キリスト教徒であろうとなかろうと、私たちが神様を中心とした生活ができるのはこの神様の愛だと思います。