「古事記」の「高天原」はアブラハムの出身地ではないか

古代イスラエル人が日本にやって来た痕跡

「古事記」「日本書紀」には古代イスラエルの人々が日本にやってきた痕跡を見出すことができるということについて、先週も坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」からご紹介いたしましたが、今日も坂東氏の著書から、「古事記」に登場する天上の神々がいる場所、「高天原(たかまがはら)」はユダヤ人の始祖アブラハムの出身地に由来するのではないかという内容を以下にご紹介いたします。

タガーマ州のハラン

実はアブラハムがイスラエルに来る前に住んでいた場所は、西アジアのタガーマ州にあるハランという町であることは聖書にも書かれている。タガーマにあるハラン、つまりタガーマハラなのだ。

高度な農業技術がもたらされた

また、「古事記」には天つ神が高天原で取れた稲をニニギノミコトに与え、それを日本中に広めたと書かれている。西アジアのタガーマハラでも麦などが大量に収穫されており、高度な農業の技術があったと思われる。つまり、タガーマハラから来た人々が、高度な稲作技術などを日本にもたらし、広げたと考えられる。もしそのように考えれば、「古事記」の記述にある高天原とタガーマハラの繋がりが見えてくる。

天孫降臨はイスラエルの人々の物語

名前からも農業技術の面からも、日本の神話の高天原は、西アジアに実存する場所であったのではないかと思えてくる。つまり日本の記紀(「古事記」「日本書紀」のこと)にある天孫降臨の話というのは、イスラエルの民が西アジアから日本を目指して進む話が神話化されたのかもしれない。(本からの引用は以上です。)

年代的にも一致

年代的にも日本の縄文時代から弥生時代への移行と南北イスラエルの崩壊の時期はほぼ一致しています。そして、その頃、大量の渡来人が朝鮮半島を渡って日本にやって来たことが分かっています。そのような大量の移民はどこから来た人々だったのか。当時、国を追われて大量の移民となったのはイスラエルの人々だったということです。

日本建国に大きな影響を与えたイスラエル系渡来人

もちろん、全ての日本人のルーツがユダヤ人とは言えないと思いますが、日本建国の時代に、多くのイスラエル移民があったことは否定できないと思います。そして、高い文明を持ったそれらの人々は日本建国の中心的な人々であり、日本人の信仰、文化、価値観に大きな影響を与えたと考えられます。

日本人の神様

今も神道や日本人の信仰、文化、価値観の中にユダヤ人との類似性を多く見出すことができる事実はそのことを裏付けていると私は思います。日本人が太古の昔から崇めて来た神様はイスラエルの人々が崇めて来た神様であり、聖書の神様だということだと思います。しかし、その神様は決してユダヤ人だけの神様ではなく全世界の唯一の神様だと私は思います。

それでは今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けましょう。

新約聖書 使徒の働き 4章23~31節

釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。

『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』

事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。

中味ではなく形が中心となる危険性

本来、イスラエルの人々が神様を中心とした生活をするために、祭司や大祭司などが立てられていましたが、やがて神様が中心でなくなり、宗教が中心となり、神様から離れてしまいました。イエスは宗教ではなく、神様を中心とした生活を取り戻すようにと人となって来られ、十字架につき、3日目によみがえったのだと思います。

イエスの弟子たちは分かった

イエスの弟子たちは宗教ではなく、神様を中心とすることが分かりました。そのためにペテロとヨハネは大祭司一族から尋問を受けましたが、釈放されると仲間たちのところに戻り、心を一つにしてみんなで神様に祈りました。宗教ではありません。神様に頼ったのです。

彼らの祈りは自己中心ではなく、神中心であった

彼らは「私たちを守ってください」とは祈らずに、「神様のことばを大胆に語らせてください。確かに神様が生きて働いておられるという奇蹟を行ってください」と祈りました。すると、地震が起こり、彼らは神様の霊に満たされて、つまり、間違いない、これで良いという確信が与えられたのだと思います。そして、神様のことばを大胆に語り出したとあります。

神様を中心とした関係

大切なことは神様を中心とすること。そして、宗教でも、誰かが言った言葉でもなく、神様が与えてくださる確信によって進むことだと思います。皆様と神様の関係が豊かに祝福されますようにお祈りいたします。