神様の御心と聖書

神様は私たちを確信によって御心に導いてくださいます

単なる自己満足ではなく、本当に私の人生はこれでいいと言うことができる悔いのない人生を送る秘訣はどこにあるのでしょう。それは自分の思いではなく、神様が私にどう生きて欲しいと願っておられるのかという、神様の御心に生きるところにあります。そのような私個人に対する神様の御心はどのようにして知ることができるのでしょう。それは神様の御心を求めるなら、個人的な確信として与えられるということを昨日書きました。

聖書は御心を知るための参考になります

それでは聖書は神様の御心とどう関係があるのでしょうか。聖書の中に神様の御心は記されていないのでしょうか。祈り求めるだけで、確信として神様の御心が分かるのであれば、聖書を読む必要はないのでしょうか。どうして「日本人の信仰と聖書について考える会」では、祈るだけではなく、聖書を読むことを勧めているのでしょうか。結論から申し上げたいと思います。聖書には個人に対する神様の御心は記されていないと私は思います。ただ、神様の御心を知る上で大変参考になるというのが私の考えです。それで聖書を読むことを皆様にお勧めしています。今日はそのことについて書いてみたいと思います。

2つの意味の神様の御心

神様の御心という時、2つのことが考えられると昨日書きました。1つは、全世界、全人類、歴史全体に関する神様の御心です。この世界は決して神様のいない無秩序な世界ではなく、神様が意志と計画を持って導いておられると私は思います。その神様の御心の全てを私たちは知ることはできませんが、その一部を知ることはできると思います。

聖書には神様が人類に介入された記録が記されています

旧約聖書には、神様が天地万物を造られた様子から始まり、やがて神様がアブラハムを選び、その子孫を通して、神様がおられることを世界に示された様子が歴史的な記録として記されています。また、新約聖書の最初にある4つの福音書を見ると、神様が人となってこの地上に来られ、神様の計画について語られ、十字架と復活によって人類の救いを成し遂げてくださったことが記されています。

聖書を読むと神様の計画の一部を知ることができます

これらの記録を読むと、神様が何をしようとされているのか、その一部を知ることができると思います。ぜひ聖書をご自分の手に取って読んでいただきたいと思います。もちろん、聖書を読んでも神様の計画の一部始終を詳細に知ることはできませんが、このような内容が記されている文書は聖書と呼ばれている一連の古文書以外にはないと思います。

聖書はキリスト教徒だけのものではありません

ここで一つお断りしておきたいと思いますが、聖書と一般に呼ばれている一連の古文書は決してもともとは1冊の本ではありません。旧約聖書だけでも39巻の別々の古文書です。書いた著者も一人ではありません。つまり、聖書は何か特定の宗教の教典を意図して書かれたものではなく、神様が人類に関わってくださった出来事について、多くの人たちがそれぞれ書き留めた複数の文書だということです。どうか聖書=キリスト教という先入観を取り去っていただきたいと思います。聖書と呼ばれる一連の古文書は神様について知ることができる全人類のための財産だと私は思っています。

聖書は永遠普遍の神様の御心が記された書物ではないと思います

さて、話を戻したいと思いますが、聖書を読むことで、神様の全世界、全人類、全歴史に関する大きなご計画、神様の御心の一部を私たちは知ることができると思います。それから、もう一つの神様の御心、つまり個人に関する神様の御心についてはどうでしょうか。聖書には全人類が守るべき生活の規範となるような神様の御心が記されていると主張する人たちもいますが、私はそのことには懐疑的です。まず、聖書自体が、聖書の言葉はあらゆる時代のすべての人たちが守るべき永遠普遍の神様の御心だと言っていないと私は思います。

でも神様の御心に生きたい人にとっては大変参考になります

聖書と呼ばれる一連の古文書には、神様がどのように人類に介入してくださったのかという歴史的な記録の他に、旧約聖書には詩篇、箴言、預言書。新約聖書には数々の手紙が収められていますが、これらは神様の思いを中心に生きるコペルニクス的転回をした人々が書いた文書です。実際にそのように生きた人々の書いた記録は私たちが神様の御心を中心にして生きるにあたって、大変参考になるものだと私は思います。しかし、それをもってすべての人類が守るべき神様の御心とすることはできないというのが私の考えです。

個人的な確信を他人に押し付けることはできないと思います

私が個人的に与えられている確信を他人に押し付けることはできないように、聖書のいくつかを書いた人々の個人的な確信を全人類に当てはめることもできないと私は思います。ですから、聖書を詳細に研究して、そこから全人類が守るべき永遠普遍の神様の御心を導き出して、それを守る宗教を作るということはできないというのが私の考えです。

それぞれの確信によって生きる

私たちは生まれも育ちも、文化も環境も、また知り得る知識も皆違います。そのような私たちが読めば、同じ聖書でも感じ方、受け取り方は違うと思います。それは当然だと思います。私は同じにならなくて良いと思います。大切なことは、神様の思いに生きることこそ私の生きる道と心を定めて、神様の御心を求めることです。そうすれば、これまでの経験や知識、聖書の内容から、個人的に確信が与えられて、神様の御心に生きることができるようになると思います。もちろん、時が経つと、その確信にも変化があるかもしれません。そういうものだと思います。そうやって神様は私たちに、その時、その時、確信を与えて、神様の御心へと導くことができると私は思います。どうぞ個人的に与えられる確信を大切にして、祈りつつ、聖書を読みつつ歩んでいただきたいと思っています。

 

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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