旧約聖書の記述にある「日本」

雅楽

旧約聖書の記述からも、古代日本にユダヤ人がやって来たことは裏付けられると考えるユダヤ人も多くいるようです。坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」の以下の内容をご覧ください。

ユダヤ人渡来伝説を支持するユダヤ人たち

私が、ベン=アミー・シロニー氏(ヘブライ大学名誉教授)やエリ・コーヘン元(駐日イスラエル)大使よりご教示頂いた「ユダヤ人渡来説」つまり「古代日本に、ユダヤ人が渡来した」という伝説は、彼らが思いつきで述べている説ではない。

ユダヤ人の間に伝わる伝説

実は、それは古代ユダヤの時代から伝わり、ユダヤ人が数千年にわたって待望している、「メシヤが来る時には、失われた十部族が、東の果ての遠く離れた海沿いの国からやって来る」という民族の預言に他ならないのである。

旧約聖書イザヤ書の記述

そしてその預言はユダヤ教の聖典「タナフ」(旧約聖書)によって裏付けられている。預言者イザヤの書(旧約聖書)にはこのように書かれている。

それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び、
海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。
地の果てから、歌声が聞こえる。
「主に従う人に誉れあれ」と。
しかし、わたしは思った。
「わたしは衰える、わたしは衰える。わたしは災いだ。
欺く者が欺き、欺く者の欺きが欺く」(イザヤ書24:15,16)

日本で神を崇める

ユダヤ人たちは、ここに書かれている「東」や「海沿いの国々」を、日本のことだ、と信じて疑わないのである。そしてそのイスラエルから見て極東の地の果てである日本に、失われた同胞、つまり消えたイスラエルの十部族がいて、神を賛美し、やがて救世主(メシヤ)が現れる時、彼らはイスラエルに帰って来る、という伝説なのだ。

秦氏の影響力

聖徳太子の側近であった秦河勝は渡来人であった。そしてその秦河勝の一族である秦氏が雅楽の祖と言われ、その子孫の一人が、現在雅楽のアーティストとして大活躍している東儀秀樹氏のようだ。

秦氏はユダヤ系渡来人

秦氏の子孫は東儀秀樹氏だけではない。古くは浄土宗の開祖・法然上人、江戸時代の国学者であり歌人・荷田春満(かだのあずまろ)、最近では漫画家のつのだじろう氏や羽田孜元首相などが秦氏の末裔である。また、鹿児島の島津氏も秦氏である。つまり秦氏がユダヤ系ならば、彼らはユダヤ人の末裔ということになるのだ。(本からの引用はここまで。)

紀元前に東へと向かったユダヤ人がいた

旧約聖書に「東の果て」「海沿いの国々」という記述があり、それは日本を指すと解釈するユダヤ人がいることは事実だと思います。旧約の時代、国を追われたイスラエルの人たちの中には、このイザヤの言葉を頼りにシルクロードを東へ東へと向かい、やがて日本にまでたどり着いた人がいたということは十分に考えられることだと私は思います。

 

二つのユダヤ系渡来人

ユダヤ系渡来人と言っても、大きく二つの時代とグループがあったと私は考えています。一つはB.C.8以降、国を追われて東へと向かった旧約時代のイスラエルの人々。もう一つはA.D.3以降、イエスをメシヤと仰ぐ新約時代のメシヤニック・ジューのあるグループの人々。このような大きく二つの流れのユダヤ系の人々が日本にやって来て、日本人の信仰、文化、伝統に大きな影響を与えたと私は考えています。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は神様を中心にして生きようとした人々の記録であり、日本人の信仰のルーツでもあります。キリスト教の教典としてではなく、神様を中心として生きるために聖書を読んでいただきたいと思っています。大切なことは宗教ではなく、神様を中心にして生きることだと思います。それが日本人の心であり、幸いな生き方だと私は思っています。

新約聖書 使徒の働き 24章17~23節

さて私は、同胞に対して施しをし、また供え物をささげるために、幾年ぶりかで帰って来ました。その供え物のことで私は清めを受けて宮の中にいたのを彼らに見られたのですが、別に群衆もおらず、騒ぎもありませんでした。

ただアジヤから来た幾人かのユダヤ人がおりました。もし彼らに、私について何か非難したいことがあるなら、自分で閣下の前に来て訴えるべきです。でなければ、今ここにいる人々に、議会の前に立っていたときの私にどんな不正を見つけたかを言わせてください。

彼らの中に立っていたとき、私はただ一言、『死者の復活のことで、私はきょう、あなたがたの前でさばかれているのです』と叫んだにすぎません。」

しかしペリクスは、この道について相当詳しい知識を持っていたので、「千人隊長ルシヤが下って来るとき、あなたがたの事件を解決することにしよう」と言って、裁判を延期した。

そして百人隊長に、パウロを監禁するように命じたが、ある程度の自由を与え、友人たちがお世話をすること許した。

パウロの弁明の続き

反対するユダヤ人たちの訴えに対し、ローマ総督の法廷で行われたパウロの弁明の言葉の続きです。指摘されるような暴動も起こしていない。ユダヤ教に反対するようなこともしていない。何の不正行為も行っていない。ただ「死者の復活のことで、さばかれている」と叫んだことは事実だとパウロは言いました。

パウロの姿勢と体制側の人たちの姿勢

パウロは誇張することもなく事実を語ったのではないかと思います。それでも、それはパウロの認識に過ぎませんから、違う立場から見て異議があるなら言ってもらいたいと言いました。神様を中心にして真実を求めるパウロの姿勢と、とにかくパウロを排除したいという感情的な体制側の人たちの姿勢の違いが際立つように思います。

「この道」

「この道」とは、パウロが主張する神様を中心とした生き方のことを指していると思います。それは「道」と表現されていました。ユダヤ教の話ではない。宗教の話ではない。生き方に関連する事。神道を初め、柔道、剣道、茶道と、日本人が「道」と表現することと関連があるようにも思います。ペリクスは相当詳しい知識を持っていたとあります。高い関心を持っていたということかもしれません。先を急がず、ここは一度閉廷して、千人隊長ルシヤの説明も聞いて、この事件を解決すると言いました。

いかがでしたでしょうか。参考になりましたら、「いいね!」でお知らせください。また、シェアのご協力もよろしくお願いします。今日も最後までお読みくださり、ありがとうございました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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