【日本とイスラエル】「失われた10支族」の行方

聖書

サイトの著者から連絡が来ることを願って、もう少し「高校生のための面白歴史教室」からご紹介したいと思います。イスラエル10支族は古代日本に来ているということについて、「余話の部屋」から「14.「失われた10支族」の行方」という記事をご紹介します。

聖書預言と日本についての洞察

記事を読んでまず驚かされるのは、聖書についてよく学んでいらっしゃるということです。以下の記述からも、聖書預言と日本についての洞察を窺うことができます。

ダビデ王家の有力な候補として、さまざまな可能性が検討されていますが、その有力な候補の一つが日本の天皇家であるということです。日本が、本来多民族国家であることは、島国の立地からも、今日ではDNAの鑑定からも明らかにされていますが、聖書で預言されているイスラエル民族の復活と栄光に関わる失われた十支族も南王国の二支族のユダヤ民族も日本に来ているのではないかと言われています。

イスラエル12支族回復の預言について

そして、イスラエル12支族の回復という聖書預言が日本から始まる可能性についても触れています。

日本の天皇家がダビデの子孫であり、日本に古代イスラエル王国の十二支族の本体がそろっているということにもしなるならば、終末の日のメシア(救世主)出現による神の国完成という栄光は日本から始まると言えることとなります。なぜなら、ダビデ王の子孫からメシアが出現すると聖書に預言されているからであります。これは、世界にとって驚天動地のニュースとなる筈です。

著者の確信

新約聖書はイエスがメシヤだと証言していますので、天皇家からメシヤが出るのではなく、天皇家は北イスラエルの王家であるエフライム族ではないかと私は考えます。ただ、サイトの著者も以下のように書いていますが、もちろん絶対そうだと言える人はいないでしょう。ただ、古代日本にイスラエル民族が来ていることについては確信を持っていらっしゃるようです。私も同感です。

そこまでの事はなくても、十分に十二支族の一部が来ているという証拠がそろっていると考えています。来日の時代については、三波にわかれていているのではないかとされています。

第一波として 前722年アッシリアに滅ぼされた失われた十支族の来日。 
第二波として 南王国ヒゼキヤ王(前736年~前700年頃)の時代の預言者イザヤに率いられた二支族の来日。 
第三波として 四世紀に中央アジアのクンユエ(弓月)から融通王によって率いられてきた景教徒(又は原始キリスト教徒)の秦氏一族の来日。 

これからも記事を読ませていただきながら、共感した部分などをこのブログでもご紹介してまりたいと思います。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の歴史のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 ヨハネによる福音書 9章1~12節

イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。

イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である」。

イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。

そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った、「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」。

ある人々は「その人だ」と言い、他の人々は「いや、ただあの人に似ているだけだ」と言った。しかし、本人は「わたしがそれだ」と言った。

そこで人々は彼に言った、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」。彼は答えた、「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。

人々は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。彼は「知りません」と答えた。

誰の罪のためか

目が見えないという災いは、罪の結果であるという考え方をしていたことが分かります。日本人にも同じ様な考え方があるのではないでしょうか。「罰(ばち)が当たった」という言葉があります。それは人間を超えた何かがあることを前提とした考え方のように思います。やはり日本人の精神性は古代イスラエル人によってもたらされた神に対する考え方があるように思います。

しかしそれは歪んでいる

しかし、それは罰が当たったのではなく、神のみわざが彼の上に現れるためだとイエスは教えました。弟子たちの考えも、また私たちの考え方も、神を土台としているものであっても、歪んでいて、正しくないということを思わされます。イエスの言葉に聞く必要があると思います。

聖書を開き、神に思いを向ける

私たち日本人の考え方は、古代イスラエル人によってもたらされた神を中心とする考え方に遡ることができると思います。数々の高い倫理観を今の時代まで継承していることも感じます。しかし、それは歪んでいる部分もあることを思わされます。だから、私は聖書を開く必要があると感じます。しかし、それは単なる聖書知識や宗教ということではありません。毎日、時間をとって、神の前に静まり、聖書を読むことで、私たちは本来の聖書の言葉、イエスの教えを見ることができるのだと思います。

いかがでしたか

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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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