【日本とイスラエル】天皇は制度ではない

十六菊花紋

天皇は制度ではなく、日本人のアイデンティティそのものであるという畠田秀生氏の主張に大変共感し、教えられました。「聖書と日本フォーラム」2019年3月号のニュースレターからご紹介いたします。

天皇を制度の中に貶める愚

まことにまことしやかに通称されている天皇制たる言葉が一般化されていることは天皇と天皇家に失礼としか言いようがない。これを一日本人として黙しておれずに一筆啓上したい。元最高裁判事、園部逸夫氏が一月七日産経新聞上でことばとして「天皇制」とそれに準ずる言葉をあたかも当然のように連ねられていた。私が数えたところでは十回に及んでいた。小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」の座長代理を務めた人である。何という軽率認識をもって自らの論説を天皇にあてはめているのか、心底をもって改めてほしい。

日本人の心を抹殺する殺心行為

天皇は制度の中にあって存在していない。まず日本の黎明と日本人としてのアイデンティティ本質軽視につながる論説過程に憤りを感じる。天地を創造され、天の真ん中に座すアメノミナカヌシから始まって、イザナギ、イザナミの日本創成、アマテラスからニニギノミコト天孫降臨に到り、初代天皇神武以来今上天皇に到る125代を単なる制度として見る観点に軽率の念を禁じ得ないからである。

血液のような存在

私たち日本人の文化的財産の要として天皇は座す。人が人前に出る時に着る衣服のように人が作成した制度ではない。むしろ人の中に流れている血液のような存在であり、働きであると言えば日本人以外の民族にとっては不可解極まりないかもしれないが、私たち日本人にとっては意味深いものなのである。

世界的常識を超えたもの

「天皇制は」ではなく、「天皇は」である。「天皇家は」である。そしてあるべき姿は、とりもなおさず「日本人の象徴は」なのである。日本国元首であると規定して存在させる制度である世界的常識を超えたものである。ことば以前に日本人として守り抜いてきたもの、それは大統領制、共和制と同一視されるものではない。制度として取り扱われてはならない。天皇たる立ち位置と存在の秘めたる伝統的意味を語るには、制度として認識するにはあまりに貧弱かつ不適切としか言いようがない。

熟慮すべきこと

たとえその人が一国の大統領であっても首相であっても、市井の市民であったとしても、天皇存在意義を今年、新しい天皇を迎えるにあたって、天皇を「天皇制度」の中で押し込めて人ご都合主義のおぞましい枠の中で封じ込める愚だけは避けてほしい。日本人の日本人たる大和魂が雲散霧消に帰する恐れがあると熟慮すべきである。天皇家は今、岐路に立たされておられる。その判断を日本人である私たちは政治的制度的に云々すること自体恐れ多いことである。(ニュースレターからの文章は以上です。)

イスラエルと聖書

私たち日本人にとって、天皇は制度ではない。天皇は日本人のアイデンティティそのものであり、天皇抜きに日本と日本人を考えることはできない。それは古代日本にやって来たイスラエル人と聖書に遡ることができる。それは他の国も導入できる制度ではなく、唯一無二の存在である。それが畠田氏の主張だと思います。こういった言葉遣い一つ一つに注意を払う必要があるということを思わされました。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本の文化、伝統、歴史、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開くとき、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 ヨハネの福音書 21章1~8節

そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。

シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。

夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。

すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。

イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため。上着をまとって海にとびこんだ。しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。

あれは主だ

それから何日たっていたのでしょうか。イエスは三度そのよみがえった姿を弟子たちにあらわしました。なぜか最初はそれと分からない様子が記されています。この聖書の記述も、何かのたとえや教えではなく、事実の記録として記されているように思います。実際にイエスは現れ、会話をされ、網を下ろすようにと命じられ、引き上げることができないほどの魚がかかったことが記されています。それは超自然的な出来事であり、人間の常識では考えられないことですが、神が生きて働いているなら、ないとは言えない出来事でしょう。そのような神は確かに生きておられるということではないでしょうか。それは宗教でも、制度でもありません。目には見えませんが、神は確かにおられるということだと思います。神の前にどう生きるのか。それが問われているのだと思います。

いかがでしたか

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目次
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二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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