【キリスト教・宗教】キリスト教の成立

サンピエトロ寺院

「高校生のためのおもしろ歴史教室」というウェブサイトを興味深く読ませていただいております。今日は「キリスト教の成立」という項から一部をご紹介させていただきます。ぜひ、著者と一度お会いしてお話しできたらと願っています。

パウロとイエスの教え

現在のキリスト教はパウロによるところが大きい。イエスの教えを伝える新約聖書は、27の巻からなり、死後25年を経た頃から編集され始めた。一番古いのが13巻からなるパウロの書簡であり、50年代に執筆されている。ついで、70年頃「マルコによる福音書」が執筆された。最終的には、393年のヒッポ公会議で27巻が認められた。正式には、397年の第三回カルタゴ公会議で、この27巻を正典とする正典目録が公認された。公認に至るまで、時々の課題に対応するため、削除、加筆、改ざんがなされているのは周知の事実である。

パウロの信仰義認の教え

例えば、原罪という思想は、パウロによる「ローマ人への手紙 第5章12節~21節」による。アダムの罪によって全人類が、生まれながら罪人となった。神より生まれたイエスの犠牲的死を受け入れることにより、初めて人は義人となる。このことを受け入れて初めて人は天国に住することができる。これがキリスト教の正統教義であるが、イエスはこのようなことは、説いていない。少なくともイエスの言行録である福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書)にはない。

 「わたしに向かって『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。」(マタイ伝7-21)

歴史的には、イエスの説いた教えとパウロが路線をひいたキリスト教の教えは区別して考えた方がよい。(サイトからの引用は以上です。)

「キリスト教」と「パウロ教」

確かに著者が言う通り、イエスの教えとパウロの教えには違いがあるように思います。そして、現在のキリスト教の教義はパウロの教えを中心にしており、敢えて言うなら「キリスト教」ではなく「パウロ教」ではないかと言う人もいるようです。

「福音」に関する2つの教え

私はイエスとパウロの教えは違うと言うよりも、強調点の違いではないかと思っています。確かにキリスト教の中心的な教義である「信仰義認」(イエス・キリストの十字架の贖罪を信じる信仰による救い)はパウロの教えに基づくものであり、福音書の中にそのようなイエスの教えを見出すことはできません。福音書によれば、イエスが教えたのは「悔い改め」であって、それは生き方の問題だと私は思います。つまり、自己中心、人間中心を退けて、神に立ち帰り、神を中心にして生きること。それが「福音」、すなわち「良い知らせ」、「幸いな人生」だとイエスは教えているのではないでしょうか。

もう1つの「福音」

パウロもまた「福音」という言葉を使っていますが、それは「イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦し」ということであり、特にパウロはイスラエルではない人々の使徒であったので、このことを強調して語ったのではないでしょうか。この「救い」と「生き方」が同じ「福音」という言葉で語られているので、誤解を生じているのではないでしょうか。この2つは分けて考えるべきだと私は思っています。

聖書を読みましょう

それでは今日も聖書の続きを読みましょう。聖書は日本人の文化、伝統、風習、国民性のルーツです。キリスト教の教典としてではなく、日本人として聖書を開く時、そこに古くて新しい発見があることでしょう。

新約聖書 使徒行伝 7章39~43節

ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプトの地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』とアロンに言った。

そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである、

『イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。

反逆の民

大祭司の前に訴えられたステパノが語った言葉の続きです。イスラエルを救うために神が立てたモーセを民は退けた。イスラエルはモーセに従わなかったのではなく、神に従わなかったのだというのがステパノの言いたい内容だったのではないでしょうか。

偶像

偶像とは自分の願いを達成するための道具であり、神ではない。大切なことは自分の願いをどうやって達成するかということではなく、そのような自己中心、人間中心を退けて、神に立ち帰り、神に従って生きるということであり、偶像教とは正反対です。それがステパノの言いたかったことではないでしょうか。

退けられたイスラエル

本来、イスラエルは神に従うことによって、神の国を全世界に示すために選ばれた民族だった。にもかかわらず、イスラエルは神を退けてしまった。それゆえにイスラエルは神から退けられたとステパノは言おうとしているのではないでしょうか。

いかがでしたか

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目次
一章 世界から称賛される日本人の国民性
二章 日本人の宗教観
三章 古代日本にやって来たユダヤ系渡来人の影響
四章 日本人の信仰
五章 「人生の目的」
六章 「人間関係」
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目次
第一章 学園の日常
第二章 イエスの教え
第三章 神と共に生きる
第四章 私が得たもの
第五章 古代ユダヤ人によって日本にもたらされた信仰
第六章 日本人の幸せ
第七章 日本の危機
第八章 求められているもの
第九章 信じるということ
第十章 宗教ではない
第十一章 日本人の宗教観
第十二章 現実逃避なのか
第十三章 神と共に生きる

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投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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