和を以て尊しとなす

人はそれぞれ生まれも、生い立ちも、環境も違います。考え方にも、価値観にも違いがあって当然だと思います。真理は一つとばかりに、正しい考え方は一つだということになれば、それに賛同できる人は良くても、賛同できない人は一緒にやって行くことはできなくなってしまうだろうと思います。また、その人、その人によって、知っている知識や情報も違いますから、ある意見に賛成の人もいれば、反対の人がいるのも止むを得ないことだと思います。もちろん、なるべく正しい判断ができるようにと、私たちは正しい情報をなるべく多く集めることは大切だと思います。でも、全てを正しくご存じなのは神様だけであって、私たちが知っているのは一部に過ぎないという意識をいつも持っていることは大切だと思います。

より正確な判断をするために、意見交換をしたり、ディスカッションすることは有益なことだと思いますが、感情的に決裂するなら残念なことです。私たちはそれぞれの限界と違いも受け入れるべきではないでしょうか。「和を以て尊しとなす」という言葉がありますが、それはみんな同じ考え方になるということではなく、それぞれの違いを受け入れ合うということだと思います。もちろん、それは良識と常識の範囲内でなければなりません。良識のない、非常識な自己主張は受け入れられません。日本人は太古の昔から、そのように良識と常識の範囲内であれば、それぞれの違いというものを受け入れ合って来たんだと思います。大変優れた日本的調和のあり方だと思います。

また、それぞれの違いというのは、それぞれの役割分担の違いという、積極的な面もあると思います。一人の人がすべてをカバーするのではなく、私たちはみんなで、それぞれ自分に与えられている部分を担当し、全体として機能していると思います。そういう意味で、この「日本人の信仰と聖書について考える会」も万能ということではなく、この日本社会の中のある一部分の働きを担っているのだと思います。

新約聖書にも収められていますが、パウロという人がコリントという都市にいる人々に宛てた手紙の中で、「からだ」にたとえて、このように書いています。「確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、『私は手ではないから、からだに属さない』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、『私は目ではないから、からだに属さない』と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」

「和を以て尊しとなす」という日本人の精神は、パウロが書いて、聖書にも収められている精神に通じるものだと思います。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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