神様は確かにおられるという確信を持てるようになる
皆さん。いかがでしょうか。毎日祈って神様に思いを向け、聖書を読んでいらっしゃいますでしょうか。今日もそのメリットをお伝えし、皆さんの祈りの生活の継続を励ましたいと思います。毎日祈って神様に思いを向け、聖書を読むことのメリットはいろいろあると思いますが、最大のメリットは、神様は確かにおられるという確信を持つことができるということだと私は思います。
神様は本当におられるのだろうかという思い
神様は目で見ることができませんので、本当にそういう神様はおられるのだろうかという気持ちになるのは当然だと思います。私もかつてはそうでした。ある時は神様は確かにおられると思うのですが、ある時は本当におられるのだろうかと思って、何か自分は愚かなことをしているのではないかと思ってしまうことがありました。ロケットが大気圏を突破するまでは膨大なエネルギーがいるように、神様は確かにおられるという動かぬ確信を持つことができるようになるまでには、エネルギーが必要なんだと思います。でも、続けていれば必ず大気圏を突破する時が来ます。神様は確かにおられます。今、私には動かない確信があります。それは理屈ではないと思います。
確信が持てれば平安がある
神様は確かにおられるという確信を持つことは私たちが生きていく上で、とても重要な確信だと私は思います。神様がおられなければ、自分の存在意義も分からなくなりますが、日々実感するのは、いつも大きな平安があるということです。皆さんと同じように、私もまたこの先どうなるんだろうという不確定な要素にいつも囲まれています。普通なら不安になるでしょうし、心配性な人であれば夜も眠れなくなるだろうなあと思うこともあります。でも、この世界をコントロールしている神様は確かにおられるという確信があるので、不安が心を支配することはありません。以前にもこのブログで書きましたが、私に委ねられていることは私がしなくてはなりませんが、神様に委ねるべきことは神様に委ねるべきだと思います。もう、それは理屈ではないという感じですね。
たとえ自分の思い通りでなくても
自分はこうすべきではないか。これが正しいことではないか。そう思って言うべき時には言う事もあります。でも、たとえ私の思う通りに事が進まないことがあっても、すべてをコントロールしているのは神様なので、私はそれほど苛立たなくても済みます。これも考え方というより、やっぱり理屈ではないという感じがします。そういう神様はおられるという確信だと思います。
確信とは思い込みの激しさのことではありませんよ
でも、確信というのは思い込みの激しさのことではありません。確信というのは、そういう神様は確かにおられるということを知っているということだと思います。そして、知っているというのは、知的な理解も必要だと思います。でも、それだけではないと思います。経験の積み重ねも必要だと思います。自分で自分を洗脳する単なる思い込みの激しさであれば、どうでしょうか。やっぱり疑いが出て来るのではないでしょうか。知的な理解と、それに基づいて生活することによって、各自で経験を積み重ねることによって、確かにそうだという実感が伴って、初めて知っているということであり、確信ということではないでしょうか。ですから、私は神様についての知識も大事だと思います。だから、私はホームページやこのブログで神様についての知識、情報もお伝えしたいと思っています。でも、それだけでは十分ではありません。やっぱり皆さんが自分でやってみて、自分で経験して、自分で神様を知ることが大切だと思います。まずは10分からでも、毎日神様に心を向けて祈り、そして聖書を読んで神様が過去においてどのように働かれたのかという記録も読んで、情報を得る。そして、ご自分で神様を体験する。これをお勧めしている訳です。
霧の中の凧。それは思い込みの激しさではありませんよね。
ある方が、「あなたは目に見えない神様をどうしてそんなにはっきりと確信することができるのですか。」と聞かれて、こう答えたそうです。「濃い霧が立ち込める中、凧揚げをしていたとします。糸の先の凧はまったく見えません。でも、この手元の糸の先には確かに凧がついているということは誰でも確信できると思います。なぜなら、私はそのことを知っているし、この糸には今も確かに手ごたえがあるからです。」 それは思い込みの激しさとは全く違うことだと思います。
これぞ日本人の信仰ではないかと思っています
どうぞ、このブログやホームページ、そして聖書を読んで、神様について知的に知ると同時に、毎日、神様の前に静まって祈る生活を続けてください。必ずしもそのこと自体が神様を体験するということではありませんが、そのようにして神様の視点を持って生活することによって、生活の中で神様を知ることになるだろうと思います。必ず大気圏を突破して、確かに神様はおられるという静かな確信を持つことができるようになり、皆さんの生活の大きな力になって行くと思います。これが日本人が太古の昔から大切にしてきた信仰だと私は思います。