天国を確信する
人は死んで終わりではないという確信を私は今持っています。確かに多くの日本人が死んだら天国に行くのではないかというおぼろげな思いは持っていると思います。それは太古の昔から人は死んで終わりではないという確信を日本人が持っていたからだと私は思います。でも、現代ではそのような確信も薄れ、日頃は死んだら終わりだと考える人が多くなっているのではないでしょうか。それで、日本人もずいぶん今さえ良ければ良いというような生き方になってしまったように思いますが、本来は人は死んでも生きるということを確かに知っていたからこそ、日本人は崇高な生き方ができたんだと思います。今こそ天国の確信を取り戻して、日本人として誇り高い生き方をしていただきたいと思っています。
個人的な確信を持つ
何度も書いておりますが、確信とは思い込みの激しさのことではありません。何の根拠もないことを闇雲に信じるのであれば、それは迷信だと思います。だからと言って、私たち自身は神様ではないので、全ての事を客観的に正しく知ることもできないと思います。だから、誰も絶対ということはできないとは思いますが(そういう謙虚さを持つことも大事ではないでしょうか)、それでも自分の知る限りにおいては「私はこう思う」という個人的な確信を持つことは可能だと思いますし、大切なことだと思います。
天国についての経験はありませんが
知り得る限りの知識と実際の経験を通して、私たちはそれぞれの確信というものをそれぞれ深めて行くことが大切なことだと思っていますが、死後の世界については、残念ながら私自身まだ行ったことがないので、実際の経験から何かをお話しすることができません。それでも私にとってはいくつかの確かだと思える証言によって、人は死んで終わらないに違いないという確信を持っています。その私の確信の根拠をいくつかお伝えして、皆様のそれぞれの確信の参考にしていただければ嬉しく思います。
聖書の証言
私にとって最も有力な死後の世界の証言は聖書です。人となった神様であるイエスは何度も死後の世界があることに言及しています。そして、「わたしを信じる者は死んでも生きる」とも言っています。また、死後に一人ひとり神様の前に立たされ、正しく生きた者は天国に入るが、正しく生きなかった者は地獄に入るとも書かれています。完全に正しい人はどこにもいないと思いますので、人はみんな地獄に入らなければならない。それも当然だと私は思います。神様は完全に正しい裁判をされると思います。それが神様だと思います。
人となった神様の死と復活
でも、本来有罪である私たちの身代わりに、人となった神様が十字架で罰を受けてくださったので、私たちの罪は赦され、天国に入ることができるようになったというのが聖書のメッセージです。聖書全体の信憑性から言って、私はこのことに納得しています。その証拠に人となった神様は3日目に復活したという事実が、多くの証言とともに聖書には記録されています。これは神様の働きがなければあり得ないことですので、天国も本当だと私は確信しています。やっぱり正しくはそれぞれ聖書を読んでいただいて、実際に何と書いてあるのか、それぞれ自分の目で確認していただくことが大切だと思います。
臨死体験をされた方の証言
それから、臨死体験をされた方々の証言も私の確信を、やっぱりそうだと強めていると思います。その体験は聖書を読んでいるいないに関わらず、皆さん似たような体験をされており、聖書の記述にも合致すると私は感じます。
宗教の教えと個人としての確信
キリスト教やいろいろな宗教が死後の世界について、いろいろな教えを持っていることは事実だと思います。その信憑性に関係なく、その教えを信じることが信仰であり、その教えを信じないことは不信仰だと宗教では考えると思います。それが宗教だと思います。私はそれぞれの宗教の教えも一つの教えとしては参考になると思いますが、この教えだけが絶対だと限定することには懐疑的です。先ほども書きましたが、人が知るところは部分的であり、これが絶対だということができる人はいないと思います。だから大切なことはそれぞれ自分の確信を持つことではないかというのが私の考えです。
それぞれの確信を尊重すべきだと思います
もちろん、これも私の個人的な確信であって絶対ではないので、私の確信とは違う確信を持つ人がいても良いと思います。人はみなそれぞれの確信があって、それぞれ行くべき道があるんだと思います。だから、お互いにそれぞれの確信を尊重することが大切だと思います。決してあなたの確信は間違っていると言うべきではないと私は思います。ただ、違う確信を持つ人との対話は有益だと思います。それは、どちらが正しいかを決めるための議論ではありません。お互いの確信について、その根拠を交換し合うことによって、それぞれ自分の確信を確認したり、深めたりする上で有益だと思います。そうでないと自分の確信も独りよがりになる危険性があるかもしれませんよね。
信仰は主義主張ではないと思います
信仰はあくまで個人的な確信であり、信条だと思います。他人に強制するような主義主張ではありません。私は私の人生を確かに豊かなものにしていると感じる私の確信について、その根拠をなるべく客観的に皆様に提示して、皆様がご自分の確信を深め、日本人としてより豊かな人生の益としていただけるならこれ以上の喜びはないと思っています。それが「日本人の信仰と聖書について考える会」の目的です。