神様の御心は分かると思います
自分の思いではなく、神様の思いを中心に物事を見ることができるようになれば、本当の人生の喜びが分かるようになるということについて昨日書きました。言い換えれば、自分がやりたいと思うことをやろうとするとストレスがたまりますが、神様が私にやって欲しいと願っていることをするなら、私の人生はこれでいいという納得の人生を送ることができるようになると言うことだと思います。これが救いだというのであれば、確かにこれは救いだと思います。問題は、そのような神様の私に対する思い、いわゆる御心(みこころ)は分かるのかということですが、私は分かると思います。今日はそのことについて書いてみたいと思います。
パソコンの存在意義はメーカーに聞けば分かる
どんな製品でもそうですが、作ったメーカーにしてみれば、その製品は何のために作ったのか、どのように使うのか、その目的というものがあると思います。だから取り扱い説明書というものがある訳です。正しく使って初めて、その製品の意味があるというものです。たとえば、パソコンにはパソコンの目的がある訳です。決して単なる装飾品ではありません。パソコンに気持ちはないでしょうが、仮にパソコンの気持ちになってみれば、装飾品としてただ飾られているだけでは、何かこんなはずではなかったという人生?になってしまうのではないでしょうか。やっぱり、パソコンが作られた、その目的のために使われてこそ本望、パソコン冥利に尽きるというものでしょう。どうしたら、そのパソコンの目的は分かるでしょうか。私はパソコン自身が自分で考えるよりも、メーカーに聞いた方が早いし、確かだと思います。そう思いませんか。
私の存在意義は私に聞いても分かりません
私は何のために生まれて来たのだろう。人もまた自分でああでもない、こうでもないと考えることはできますが、なかなか分かりませんし、分かったと思ったところで、それが正しいという保証もありません。やっぱりメーカーである神様に聞いてみるのが一番ですよね。私たちの目的は私たち自身の中にあるのではなく、神様の中にある訳ですから。これが昨日お話ししたコペルニクス的転回です。ここまで分かれば、神様の私に対する御心はあともう一歩で分かります。まあ、分かったも同然だと言って良いと思います。
神様の2つの御心
ところで、神様の御心と言う時、大きく2つあると思います。1つはこの世界全体、歴史の全体にわたってある神様の御心です。神様は確かに生きて働いておられ、全世界の歴史をある方向へと計画を持って導いておられるだろうと思います。つまり、この世界は決して無秩序ではないということです。神様が全てを支配し、導いておられると私は思います。その神様の御心の全てを人間は知ることはできないとは思いますが、そのような神様の大きな御心、ご計画はあるだろうと思います。
私個人に関する神様の御心
もう1つは神様の私個人に対する御心。神様が私にどのように生きて欲しいと願っておられるのか。それは神様の全世界に対する大きな御心と当然連動していると思います。それと無関係ではないと思います。しかし、全体と関連しながらも、やはり私個人に対する神様の御心というものが、それとは別にあると思います。どうやってそれを知ることができるでしょうか。
神様の御心に生きたいと願い求めるなら確信が与えられます
そのために最も大切なことは、そのような私に対する神様の御心というものは確かにあるということを知って、それを求めることです。もう少し踏み込んで言うなら、その御心に生きたいと願い求めることです。そうすれば、確信という形でそれは必ず分かると思います。
個人的な確信とは何か
確信とは何かということについて、もう何度か書いてきましたが、それは思い込みのことではありません。ここで言う確信とは、知的な納得とともに、これまでの経験からも確かにそうだと思えるということです。それは神様に心を向けて、「天の父なる神様。私は自分の思いではなく、神様の御心に生きたいと心から願います。どうぞ私に対する神様の御心を確信という形で私に示してください。」と祈ってみてください。そうすれば確信が与えられると思います。その確信に従って生活してみてください。その確信が神様から来ている確信であるか、単なる自分の思い込みであったのか識別できると思います。
個人的な神様の御心を普遍的な神様の御心と勘違いしないでください
ただ、それはあくまでも個人的な確信であり、個人的な神様の御心であることを忘れないでください。そのような個人的な確信をあたかも永遠普遍の真理であるかのように勘違いして、他の人も守るべきだと主張したりする悲劇が宗教においては往々にして起こります。(同性愛に反対だということで、同性愛者を殺してしまったり、人工妊娠中絶に反対だということで、人工妊娠中絶をする医師を殺してしまったり、それを支持したり、時々、宗教はそういう問題を起こしています。そのような確信を個人的な信条として持つことは、もちろん悪いことではありませんが、それを普遍的な神様の御心だと勘違いし、全ての人がそれに同意すべきだということになれば問題になります。注意しましょう。それはあくまでも個人的に与えられた神様の御心だということです。) しかし、だからと言って、宗教の全てを退けなくても良いかもしれません。それぞれの宗教の教えにも、私たちがそれぞれ個人的な確信を持つために参考になるものもあるかもしれません。宗教も参考なら良いと私は思います。
それは私だけに与えられている特別な神様の御心です
しかし、大切なことは宗教の教えではありません。神様の御心です。それは個人的な確信として与えられると思います。その個人的に与えられる確信によって私たちは生きる時に、私の人生はこれで良いと確かに言える人生を送ることができるようになると私は思います。