十字架と復活による励まし
神様ご自身が大きな犠牲を払って私たちの身代わりに罰を受けてくださったので、私たちは正しくない者であるにも関わらず、それでも大丈夫だよという大きな励ましをいただくことができる。だから、私たちは弱い自分と向き合って、それでも落ち込むことなく、顔をまっすぐに上げて前進することができる。とてもありがたいことだと思います。
これがイエス・キリストの十字架と復活という歴史上の出来事の意味ですが、これはキリスト教の話ではなく、太古の昔から日本に伝えられ、日本人の精神性と信仰心を形作ってきたようです。私は聖書の中に日本人の心のふるさとがあるということを広く愛する同胞である日本人に知っていただき、古くから日本人が大切にしてきたこの信仰に立って、魅力的な人生を歩んでいただきたいと願って、「日本人の信仰と聖書について考える会」を始めました。
日本と十字架と復活
「日本人の信仰と聖書について考える会」ホームページにも書きましたので、そちらもお読みいただきたいと思いますが、A.D.3世紀頃には秦氏と呼ばれる一族が大陸から日本に渡って来たことが分かっています。彼らは神様の十字架と復活に立つ信仰を持っていたと言われています。やがて秦氏は日本で大きな力を持つようになり、A.D.794に都を京都に移したのも秦氏によるものだと言われています。いわゆる日本らしさというものは秦氏によるところが大きく、日本の神道、仏教にも大きな影響を与えており、日本人の信仰、日本人の精神性は神様の十字架と復活の影響を受けていると言うことができると思います。
A.D.804に空海が遣唐使として中国の長安に渡りましたが、当時、長安には景教と呼ばれるキリスト教が広く伝えられており、当然、空海も聖書に親しんだであろうと考えられます。つまり、空海が開いた真言宗にも神様の十字架と復活の思想の影響を考えることができるということだと思います。
また、浄土宗や浄土真宗などの教えも聖書の教えと大変似ていると感じるところがあります。それは偶然ではなく、日本の仏教、神道には聖書の信仰の影響があるということだろうと思います。このように、神様の十字架と復活に基づく信仰というのは、1549年にフランシスコ・ザビエルによって初めて日本にもたらされたものではなく、もっとずっとずっと古い時代に、これから日本という国が形成されていくという時代に、その精神的な支柱ともなった信仰なのであろうと思います。
十字架と復活は日本人の信仰
聖書には良いものは全て上から、つまり神様から出ているとあります。神様の十字架と復活による救いを土台とする信仰は、決して外国の宗教ということではなく、私たち日本人の信仰だと言えると思います。この日本人として大切にしてきた精神性、信仰心というものを大切にするところに、本当に豊かな生き方があると私は思っています。