神様の視点から政治を考える
もう選挙には行かれましたか。「日本人の信仰と聖書について考える会」では、選挙に行く行かないを含め、特定の政治思想や政党の支持表明などはいたしません。それぞれ確信されるところに従って行動すべきであり、それぞれの確信を尊重したいと思っています。ただ、神様の視点から政治や社会をどう受け止めたら良いのか、私たちはそれぞれどのように確信を持ったら良いのかということについてはお手伝いしたいと思っています。そして、それが分かれば私たちは正しく考えて行動し、余計な不安や不満から解放されると思います。
神様の願いに焦点を合わせる
自分の願いではなく、神様の願いは何か。そこに私たちの焦点を合わせれば、多くの事柄が明瞭に見えて来ると思います。日本の政治や社会の在り方に強い思いが与えられ、神様は私に政治家として働くことを願っておられるという確信を持つ方もいらっしゃると思います。それが神様から出ている思いであれば、必ず道が開かれることでしょう。私たちは神様が与えてくださる確信に従って歩むことが大切だと思います。
自分に与えられている確信に生きる
しかし、全ての人に同じ確信が与えられる訳ではないことも知っておかなければいけません。他の人に与えられている確信も尊重しなければなりません。また、一人で全ての責任が与えられている訳でもありません。私たちはそれぞれ神様から与えられる確信によって、それぞれの部分を担当することによって、全体として進められている神様の働きに参与していくのだと思っています。
働きにはいろいろ種類があります
神様の願いに生きることを心に決めたパウロという人が古代ギリシャのコリントという町にいる人々に宛てた手紙の中にこのような文章があります。「さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」
私もそう思います
「賜物」とはプレゼントという意味ですが、神様から与えられた才能というような意味だと思います。「御霊」とは神様の霊のことです。神様の願いに生きたいと願うなら、その人は自分の霊ではなく、神様の霊に導かれて歩んでいると言って良いでしょう。その神様の霊は誰にとっても同じ神様の霊なのですが、才能は人によっていろいろあるということでしょう。「主」というのは主人という意味ですが、神様の願いに生きるというのは、神様を主人とするということでもあるでしょう。同じ主人に仕えていても、奉仕にはいろいろな種類があります。私たちに確信を与える神様は同じ神様なんですが、働きは人によっていろいろな種類があります。その通りだと私も思います。全体の益になるように、人それぞれに「御霊の現れ」が与えられていると記されています。いろいろな現れ方があるということでしょう。
一歩ずつ与えられる神様の確信
私に対する神様の願いは政治家になることなのか。神様の願いに生きたいと心を定め、祈り求める時に、政治家としての思いが強く与えられ、そのための才能も与えられ、その道が開かれるのであれば、これが私の道だと確信を持つことができるでしょう。確かに立ち止まって祈っているだけでは分からないかもしれません。一歩前に踏み出した時に、次の一歩が導かれる。それが今日までの私の経験から言える確信です。
私が確信をしているのは「日本人の信仰と聖書について考える会」
ただ、すべての人が政治家になることが神様の願いではないでしょう。少なくとも私は政治家ではなく、この「日本人の信仰と聖書」について、すべての日本人に知っていただくための働きをし、すべての日本人が神様の願いを中心にした生活をすることができるようになるためのお手伝いをしたい、それが神様が私に願っていることではないかと思っています。
神様の視点で見るなら
ですから、政治については、神様が選んでくださる方にお任せすべきだというのが私の確信です。私の責任は選挙で1票を投じることでしょう。もちろん、随分税金が高いなあとか、適正な税負担になっているのかなあとか、いろいろ感じることはあります。でも、以前にこのブログでも書きましたように、自分の責任領域と神様に委ねるべき領域を区別することは不安や不満から解放される秘訣だと思っています。今日の選挙で誰が選ばれるのか。神様の視点から見るなら、すべて神様の支配の中に置かれていると確信しています。その方々が正しい政治を行うことができるように私たちは祈ることが大切だと思います。不正があるなら、それは正されなければなりません。でも、神様にお委ねすることはお委ねし、自分の責任を神様の前に果たすことが大切ではないかと思います。何か皆様の確信のための参考になれば幸いです。