15人が死亡、45人が負傷
今朝、午前2時半頃、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に刃物を持った男が侵入し、入所者が刺され、15人が死亡、45人が負傷という痛ましいニュースが飛び込んできました。26歳の男が警察に出頭して来たということですが、少なくとも60人の人を刺している訳で、私はこれまで日本でこのような凶悪事件があっただろうかと思いました。関係者を含め、日本全体が大きなショックを受けていると思います。それと同時にこのような事件はこれから増えて来るのだろうかという心配を感じました。
悪を行う人たち
「日本人の信仰と聖書について考える会」では神様を中心とした生活をしていただきたいという活動をしている訳ですが、それは正しいことを中心とした生活をしてくださいということであり、悪を憎み、悪を退ける生活をしましょうということでもあります。そこに私たち一人ひとりの幸せもありますが、社会全体の幸せもあることはもちろんだと思います。しかし、残念ながら神様に背を向け、真理を拒み、正義に反逆し、耳を傾けようともせず、心を決めて悪を行う人がいることも事実です。
聞く耳を持たない人たち
「日本人の信仰と聖書について考える会」では「日本人の心」というパンフレットを作って、各家に配布していますが、玄関先にいらっしゃる方には「日本人の心を大切にしましょうという活動をしています」と言って、パンフレットをお渡しすると、殆どの方は「ありがとうございます」と快く受け取ってくださます。ところが、稀に大変な権幕で「いらない。いらない。そんなものいらない。」と言われる方があり、大変残念な思いにさせられます。まったく聞く耳を持たないという感じです。このような人には、さぞかし周りの方も迷惑していることだろうと想像します。こういう人って増えてくるのでしょうか。益々「神様を中心とした生活をしてください」と呼び掛ける必要性を感じます。それと同時に、人となった神様であるイエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたように、聞く耳のない人は結局聞かないのかもしれないということも思わされます。聞く耳のない人にならないようにしましょう。
新約聖書 テサロニケ人への手紙 第二 2章1から12節
今朝、私が読んだ聖書箇所にこのように書かれていました。これはパウロという人がギリシャの大都市テサロニケにいる神様を中心とした生活をする人たちに宛てた手紙の一部です。「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」
真理を信じないで、悪を喜ぶ人々
人となった神様であるイエスは再びこの世界に帰って来られることが複数の古文書に記録されています。その日は「主の日」と呼ばれています。その前に、まず背教が起こり、不法の人が現れるとパウロはここで書いています。注目したいことは、救われるために真理への愛を受け入れないなら、神様は偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれると書いてあることです。それは真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者がさばかれるためだと書いてあります。
「日本人の信仰と聖書について考える会」の重要性
真理を愛さない。神様を中心にしようともしない。正義ではなく、悪を好むのであれば、本人が救われないだけでなく、他人にも多くの問題を引き起こすことになると思います。そのような人は神様の前に正しくさばかれるのは当然だろうと思います。もちろん、どれだけ正しく出来ているかということではありません。神様を中心にしようとしているのかどうかということが問われているのだと思います。「神様を中心にしてください」という「日本人の信仰と聖書について考える会」の働きの重要性を思わされます。皆様どうぞご協力ください。