日本の文化にはイスラエル、聖書の影響が色濃くあります
「日本人の信仰と聖書について考える会ホームページ」の「日本とイスラエル」のページhttp://nihonjintoseisho.com/isuraeru.html でも紹介しましたが、日本にはイスラエル人、聖書の影響が色濃く見られます。今日は日本語の中にあるヘブライ語の影響を少しご紹介したいと思います。
「ヨイショ」はヘブライ語で説明できます
日本人は力を入れる時によく「ヨイショ」とか、「ドッコイショ」という掛け声をかけます。何でこのような掛け声をかけるのか、考えてもよく分かりませんが、その語源をヘブル語に遡ることができるようです。ヘブライ語で「イェシュア」は「神の救い」を表します。人となった神様の名前は「イエス」であったことが聖書に記録されていますが、ヘブライ語の発音では「イェシュア」です。それは、「神の救い」という意味の名前だったことが分かります。当時も今も、「イェシュア」という名前の人はたくさんいたようです。日本語の「医者」も「イェシュア」が語源と考えられるようです。神様に呼び掛ける言葉はヘブライ語では「ヤー」。すると、「ヤーイェシュア」は「神様。神様の救い」と神様の救いを求める祈りの意味が込められていることが分かります。それが「ヨイショ」になったと考えられます。
「ドッコイショ」もヘブライ語
ヘブライ語で「ドケ」は「押す」という意味だそうです。そうすると、「ドケイェシュア」は「神の助けによって押す」という意味の祈りの言葉であることが分かります。それが「ドッコイショ」になったと考えられます。そして、「ドッコイショ」と言えば、北海道民謡のソーラン節を思い起こします。「チョイ ヤサエ エンヤサー ノ ドッコイショ ハー ドッコイショ ドッコイショ」と歌われます。その意味も日本語としては良く分かりませんが、ヘブライ語として解釈すると分かるようです。
「ヤーレン ソーラン」はヘブライ語
まず「ヤーレン」ですが、これは「喜び歌う」というヘブライ語の「イェラネン」と考えられるようです。「ソーラン」はヘブライ語でもそのまま「ソーラン」で、「一人の歌い手、ソロ歌手」という意味だそうです。「チョイ」はヘブライ語の「ツォイ」で、「前進する」。ヘブライ語で「ヤサエ・エンヤン」は「まっすぐ目指す」。「サー」はヘブライ語では「嵐」という意味。そうすると、この囃子詞は「たとえ嵐が来ようとも、(約束の地を)目指して、まっすぐに進め」という意味があることが分かります。「ノ・ドッコイショ」の「ノ」は「お願いします」という祈りの言葉「ナ」であると考えられ、「ドッコイショ・ドッコイショ」、「神様の力で押せ押せ」という掛け声で終わります。
イスラエルの民が日本列島を目指して海を渡った時の唄
このように見て来ると、ソーラン節は神様の約束を信じて、東の果てに約束の地を目指した人たちが、嵐をも乗り越えて、たとえ一人でも喜び歌いながら、神様に助けを求めつつ前進した唄であったことが伺えます。きっと紀元前7世紀頃、預言者イザヤの言葉に従って、「東の海の島々」を捜し求めたイスラエルの民が、アジア大陸から海を渡り、日本列島を目指す時に歌った唄ではないでしょうか。私たち日本人の生活の中にはこのようにイスラエルと聖書の文化が深く影響していることがお分かりいただけるのではないでしょうか。以上は「日本とユダヤのハーモニー」から学ばせていただきました。詳しくこちらをご覧ください。http://www.historyjp.com
新約聖書 ルカの福音書9章43~48節
さて、私たち日本人のルーツである聖書から、今日も少しご一緒に読みましょう。「イエスのなさったすべてのことに、人々がみな驚いていると、イエスは弟子たちにこう言われた。『このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。』 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。」
神様が人の手に渡される
悪霊を追い出し、盲人の目を開け、生まれつき歩けない人を立たせる、このイエスという方の著しい力に人々は大変驚いた様子が聖書には生き生きと記録されています。それは何かのたとえでも教えでもありません。驚くべきことですが、事実の記録であることは間違いありません。弟子たちはこの方が人となって来られると預言されていた神様であると言いました。ペテロとヨハネとヤコブはその神としての姿も目の当たりにしたことが記されています。そして、イエスが弟子たちに言われた言葉が「人の子は、いまに人々の手に渡されます」という言葉でした。神様が人間の手によってむち打たれ、十字架につけられて殺される。イエスはそのことを弟子たちに言われたと思います。しかし、神様が人の手に渡されるということは、人間を中心にして考えていたら、やはり分からないだろうと思います。彼らにはまだ分からないように隠されていたとも書いてあります。これまでは分からなければ尋ねていた弟子たちでしたが、このことは聞けなかったようです。でも、「このことばを、しっかり耳に入れておきなさい」と言われていたので、しっかりと記憶に留めておいたんだと思います。それでこの記録が残ったんだと思います。
神様を中心としながらも、段々と分かるものもある
神様を中心にする生活を始めたからと言って、あっという間に全部が分かるという訳でもないんだと思います。神様を中心とした生活をする中で、だんだん分かって来るものもあるんだと思います。今日も自分の思いや考え、自分の好き嫌いではなく、神様の思い、神様の願いを求めて、それを中心にした生活をしてみましょう。本当の人生の喜びは、自分の思いを満たすところにではなく、神様の願いを満たすところにあるということを必ず実感すると思います。