聖書を神様にしないように気を付けましょう

「みことば」という言葉にも注意が必要です

昨日のブログ記事に少し補足したいと思います。昨日のポイントを一言でまとめれば、聖書の言葉を神様そのものとしないように気を付けましょうということだと思います。「ことば」に「み」をつけて、「みことば」と呼ぶキリスト教の習慣も誤解を招きやすい点があるので注意が必要だと私は思います。もちろん神様の言葉ですから、御(み)をつけて御言葉(みことば)とすることに問題はないと私も思います。でも、昨日も書きましたように、聖書と呼ばれる複数の古文書に記録されている言葉には、神様の言葉も含まれていますが、そうでないものもありますますので、聖書の言葉すべてを「みことば」とは呼ばない方が良いと私は思います。

聖書の偶像化に気を付けましょう

本来神様ではないものを神様とすることを偶像化と言いますが、聖書を偶像化してはいけないということだと思います。分裂や紛争、極端な場合は侵略や殺人などにも発展してしまうことがありますが、発端はここにあると私は思っています。聖書は神様ではありません。それは決して聖書の権威を貶めることにはなりません。聖書は私たちが神様についての情報を得るための最高の資料だと思います。まさに本の中の本であることに間違いないと思います。これが聖書の正しい位置だと思います。

生きて働いておられる神様を中心にすること

神様は聖書ではありません。神様は教えではありません。神様は目には見えませんが、今、あなたと共におられるお方です。このお方を心の中心にお迎えし、このお方の願いを中心にした生活をすること。そこに私たちの幸いがあり、全ての問題の解決があります。だから、「日本人の信仰と聖書について考える会」では、このことを最も大事なこととしてお伝えしています。

神様に心を向けて祈り、聖書を読むことをお勧めします

そして、神様をいつも中心にした生活をするために、毎日時間を決めてお祈りをし、聖書を読むことをお勧めしています。聖書は神様ご自身ではありませんが、神様について知るべき大切な情報が記録されているからです。今日もルカの福音書から続きを少しお読みしたいと思います。

新約聖書 ルカの福音書9章37~43節

「次の日、一行が山から降りて来ると、大ぜいの人の群れがイエスを迎えた。すると、群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。『先生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。』 イエスは答えて言われた。『ああ。不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。』 その子が近づいて来る間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しくひきつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された。人々はみな、神のご威光に驚嘆した。」

私の感想です。皆様の参考になれば幸いです

この箇所からも、悪霊が存在すること、人に取りついて、ひきつけさせてあわを吹かせたりしたことが分かります。弟子たちはこの霊を追い出すことができませんでした。人となった神様であるイエスは「ああ。不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」と言われました。どういう意味で言われたのか、私には正確には分かりませんが、不信仰とは神様を中心としない、神様の力を信用しないことかもしれません。曲がったというのは、中心が間違っている世界、神様を中心としないで、人間を中心とする世界のことかもしれません。人となった神様であるイエスご自身が一緒にいるというのに、この方を中心としようとしないということに、いつまで我慢しなければならないのだろうと嘆かれたのでしょうか。良く分かりませんが、あなたの子をここに、イエスのところへ連れて来なさいと言われました。イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡されました。このことからも、この方は間違いなく人となった神様であることが分かるのではないでしょうか。人々はみな、イエスの驚くべき力に驚いたとは書かれておらず、神のご威光に驚嘆したと書いてあります。このイエスという人物に神様のご威光を見たとこの文書の著者は記したのではないでしょうか。