キリスト教徒という意味ではないのか
水曜日のテーマは「キリスト教・宗教」です。一般的に「クリスチャン」という言葉は洗礼を受けてキリスト教という宗教に改宗したキリスト教徒の意味で使われると思いますが、クリスチャンの中にはそうではなく、イエスをキリスト、つまり救い主、メシアとして受け入れた人を指してクリスチャンと呼ぶと主張する人もあるようです。読者の中にはどこが違うのか分からないという方もいらしゃるかもしれませんが、これは神様を中心に生きることをキリスト教、宗教と区別して考える上で大変重要ですので、その微妙な違いについて少し書いてみたいと思います。
イエスを神様として受け入れた人がみんな「クリスチャン」と呼ばれた訳ではない
実はイエスが人となった神様であり、旧約聖書の時代から預言されていたメシア、救い主、キリストであるということを受け入れた人々がみんなクリスチャンと呼ばれた訳ではなかったと思います。イエス自身もイエスの直接の弟子たちもクリスチャンと呼ばれませんでした。クリスチャンという言葉が初めて使われたのは、聖書の記録によるとアンテオケというギリシャ的な都市においてでした。その後、ローマでキリスト教が国の宗教になると、クリスチャンという言葉はキリスト教徒を意味する言葉として使われるようになったんだろうと思います。
単なるキリスト教的慣習ではないという意味での「クリスチャン」
しかし、クリスチャンの中には、自分は単にキリスト教という宗教に所属して、キリスト教の慣習やしきたりに従って生きているのではなく、イエスを神として、イエスに従って生きているんだという意味で「クリスチャン」という言葉を使う人もいるようです。しかし、私から見れば、それでも、洗礼を受け、毎週日曜日の集会に参加し、日本の宗教的行事には抵抗を感じるなど、キリスト教という宗教の影響を受けているように見受けられ、やはりキリスト教という宗教の信者と考えて良いのではないかと思っています。
メシアニック・ジューと呼ばれる人たち
ところが、イエスをメシアとして受け入れてもクリスチャンにならない人たちがいます。メシアニック・ジューと呼ばれる人たちです。彼らはユダヤ教徒としてのアイデンティティーを持ったままイエスをメシアとして受け入れ、キリスト教の慣習は受け入れません。彼らをクリスチャンと呼ぶことはできないと私は思います。
神様を中心とした生活は宗教とは違う次元のことだと思っています
ちょっと難しい話になってしまいましたが、私が言いたいことは、メシアニック・ジューと同じように、日本人はイエスをメシアとして受け入れてもクリスチャン、つまりキリスト教徒にはならないで、日本人としての慣習や宗教行事を大切にして、神様を中心とした生活をすることができると思うということです。神様を中心とした生活をすることは、宗教とは違う次元の話だと私は思っています。それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書きたいと思いますので、どうぞ神様を中心とした生活の参考にしてください。
新約聖書 ルカの福音書12章22~31節
それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。
何はともあれ、神様を中心にしなさい
イエスが弟子たちに語った言葉はまだ続きますが、今日はここまでにしましょう。食べる物、着る物のために働く必要はないということではないと思います。心配して、生活が全てということになって、気をもむことはやめなさいということだと思います。神様に目を留めましょう。神様は私たちのことを心にかけていてくださると教えています。「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。」 私たちのことを常に心にかけていて下さる神様を意識して、神様の願いを中心にして生活しなさい。これが日本人の心ではないかと私は思っています。そうすれば神様が私たちの生活を守ってくださるとイエスは弟子たちに教えました。それはキリスト教徒になることとは関係のない次元の話だと私は思います。