子供の教育を神様のデザインという視点で考える

子供の教育には適切な時期がある

金曜日のテーマは「神様を中心とした子供の教育」です。今日は子供の教育には、神様のデザインという視点で考えると、適切な時期があるということについて、特に幼児期の教育について書いてみたいと思います。どうぞ参考にしてみてください。

脳の発達という観点で考えると

これまで、神様を中心とした子供の教育についていろいろと学びまた経験する中で、幼児期というのは一生の中で2度とない特別な時期にあるということが分かりました。脳の発達という観点から見ると、幼児の脳は2歳までに大人の80%も成長を遂げるそうです。生存に必要なことはこの時期に身に付けているようで、この時期の幼児の環境は最も重要だと言えそうです。

6歳以前であれば5か国語くらいは身に付きます

次に重要な時期が3歳から6歳の時期で、幼児の脳はこの時期には大人の90%にまで成長を遂げるそうです。たとえば言語のような大変複雑な技能は遅くともこの時期には始めないと一生身に付かないと言われています。逆にこの時期であれば、環境さえ整えれば、健康な子供は能力の差に関係なく5か国語くらいは身に付けることができるようです。6か国語、7か国語と身に付ける子供もいるようですが、そのくらいになると能力的な差もあるのかもしれません。

臨界期は6歳前後に来る

そして、子供の脳は12歳くらいまでには大人と同じ100%にまで成長するそうです。ただし、この時期は新しいことを身に付けるというよりは、6歳までに使わなかった領域を削除し、使う部分の処理速度を速める時期であり、分かりやすく言うと脳が固まっていく時期と言えるようです。ですから、脳の発達という観点から言うと、6歳以前という時期がいかに重要であるかということをご理解いただけるのではないかと思います。脳の専門家の間ではもはや定説となっているようですが、幼児の脳の発達にはいわゆる臨界期というものがあって、それはだいたい6歳前後に来ると言われています。

神様のデザイン

そこでいくつか提案したいことがあります。幼児はまだ言葉が話せないから何も話しかけないという親はいないと思います。親は幼児が分かっても分からなくても「おいしいねえ」とか、「うれしいねえ」とか話しかける訳です。どうしてそれで言語を習得できるのか私たちには理解できないのですが、学者が一生かかっても解明することができない複雑な言語を2歳くらいまでには身に付けてしまいます。これは人間だけに与えられた特別な能力です。神様が人間をそのようにデザインされたということが分かると思います。それは他の動物とは決定的に違います。残念ながら今日は時数が尽きてしまいました。続きはまた来週書きたいと思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、考えたことを書いてみますので、神様を中心とした生活の参考にしてみてください。

新約聖書 ルカの福音書12章35~40節

腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

神様を中心とした生活をしていなさい

イエスが弟子たちに教えて話された言葉の続きです。パリサイ人、律法学者たちとの対立が鮮明になる中で、弟子たちに来るべき対立に向けて心構えを話されているようです。それはイエスの十字架の死が近づいた時でもありました。「腰に帯を締め、あかりをともしている」というのは、パジャマに着替えて、明かりを消して、眠っていないで、起きていて、主人の帰りを待っていなさいということでしょう。主人とはイエス自身のことであり、神様を中心とした生活をしていなさいということだろうと思います。

いつ神様が帰って来ても良いように

「人の子は、思いがけない時に来る」 人の子とは、旧約聖書の時代から預言されていた救い主、メシア、人となった神様のことであり、それはイエスご自身のことを指して言っていると思います。思いがけない時に来るとはどういうことでしょうか。間もなくイエスは十字架にかけられてこの世界を去ります。でも、また来るということを他の箇所で言っていますので、そのことを言っているのではないかと思います。それは思いがけない時、だから用心していなさい。いつ神様が帰って来ても良いように、その時に神様を中心にして忠実に生活している姿を見ていただけるように、目を覚ましていなさいということではないでしょうか。

神様が給仕してくださる世界

これは差し迫った危機を前に、イエスが弟子たちに教えた言葉ですが、私は今の自分にも当てはめることができるのではないかと思います。差し迫った問題がないから神様を中心にした生活をしなくて良いということではないと思います。いつ神様が帰ってこられるのか、それは分からないのではなく、思いがけない時だとイエスは教えました。つまり、帰って来ないと思っている時に帰って来るといことではないでしょうか。だから、いつも神様を中心にしていられるようにしたいと思います。どうぞ皆さんもそのために、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読む生活をしてみてください。そして、いつも、どんな状況においても、神様の視点で物事を見る習慣を身に付けてみてください。世界の見え方が全く変わって見えて来ると思います。神様が帰って来られたら、神様ご自身が私たちに給仕してくださる世界が待っているとイエスは教えました。

投稿者: 吉村 忠敏

全ての問題の原因は人間中心、自己中心です。人間中心、自己中心を退けて、神に立ち帰って正しく生きるなら、どんな問題も解決します。しかし、人は生まれながらに人間中心、自己中心であり、そのことに気づいていないことも多々あります。だから毎日神に祈り、聖書を読むことをお勧めします。それは必ずしもキリスト教徒になることではありません。神を中心とした正しい生き方は本当の日本人の心を取り戻すことです。

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