神様の願いを中心に結婚と結婚相手を考えてみる

恋愛は結婚してから

土曜日のテーマは「恋愛、結婚」です。「恋愛、結婚」も自分ではなく、また相手でもなく、神様を中心にするところに本当の幸せがあります。恋愛感情というのは、あの人が大好きだという自分の思いですが、それが中心になってしまうと、こんなはずではなかったということになりかねません。恋愛感情は決して悪いものではありませんが、神様を中心に考えるなら、それは結婚をした二人に与えられたものだと私は思います。

結婚は神様が与えてくださるもの

神様を中心に考えるなら、結婚は神様が引き合わせてくださるものです。ですから、神様に祈り求めることが大切だと思います。もちろん、独身を貫くという生き方もあると思います。大切なことは神様の願いです。神様の願いを祈り求めながら、神様に結婚相手を与えてくださるように祈り求めることが大切だと思います。

結婚は目的ではありません

目的と手段を区別することは大切です。一人ひとり人生の目的に違いはあると思いますが、誰にとっても幸せになることは共通した人生の目的だと思います。何を成し遂げたら、あなたの人生は幸せだと言えるのでしょうか。苦労が多くても幸せだという人生もあると思います。人生は快適ならそれで良いというものでもないでしょう。幸せは他人と比較できるものではありませんが、いずれにしても幸せであるかどうかは大切なことだと思います。

幸せな人生のために結婚が助けになるか

そのためには自己中心ではなく神様を中心にすることが大切です。自己中心が自分も周りの人も不幸にします。ですから、神様を中心とした生活をして、本当に幸せな人生を送るために、結婚が有益であり、助けになるのであれば、神様に相応しい結婚相手を与えてくださるように祈り求めるべきだと思います。

共に神様を見上げて歩める人なのか

かつて日本ではお見合い結婚が普通だったと思います。恋愛感情を持つ前に、相手の人はどういう人なのか。真面目な人なのか。どのような人生観を持った人なのか。自分勝手ではないのか。正しく生きたいと考えている人なのか。自分はこういう人生を送りたいと願っているが、共感してもらえるのか。など。もちろんお互いに完全な人はいませんが、少なくとも共に神様を見上げて、神様の思いを中心に生きることができる人であるかどうかは重要だと思います。

新約聖書 ルカの福音書11章37~44節

それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみますので、皆様が神様を中心とした生活をするための参考にしてみてください。

「イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた。そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。すると、主は言われた。『なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。』」

宗教ではなく神様を愛して、神様を中心とした生活をすること

パリサイ人(びと)というのは、ユダヤ教のパリサイ派に属する人々のことで、厳格な宗教上の戒律を守り、指導する人たちでした。イエスが食事の前に「きよめの洗い」をしないのを見て驚いたとあります。それは衛生のために手を洗うことではなく、宗教上の洗いきよめのことです。あなたがたは宗教上の戒律は厳格に守っているけど、心の内側は悪で満ちているとイエスは指摘しています。「うちのものを施しに用いれば、すべてはきよいものとなる」とは、そのような外面的な宗教上のしきたりではなく、心からの思いを神様にささげるなら、すべてはきよいものとなるということではないでしょうか。大切なことは宗教をやることではなく、心から神様を愛し、神様の思いを中心とした生活をすることだと思います。人となった神様であるイエスはそう言われました。神様を中心とした生活をするなら、私たちはきよめられるということでしょう。