子供に「神様を中心にすること」を教える

金曜日のテーマは「神様を中心とした子供の教育」についてです

今日は我が家の子供達の教育について、これまでどのようにして来たのか、もっとこうしたら良かったかなと思うようなことを書いてみたいと思います。どうぞ参考にしてみてください。

我が家ではホームスクーリングをしました

我が家の子供達は3人。長男は28歳で、すでに結婚して子供もおります。長女は25歳。次女は23歳です。我が家では子供達の教育を学校まかせにしないで、親が家庭で教育をするというホームスクーリングに共感して、長男が中学3年生、長女が小学5年生、次女が小学4年生から学校には行かずに、家庭での教育を始めました。毎日、親が子供の学習指導、教育をするということで、その時は大変だと感じたこともありましたが、楽しい思い出もたくさんあります。振り返ってみると、子供達と多くの時間を共有することができたことは良かったのではないかと思っています。

毎日祈り、聖書を読む習慣をつける

教科の学習も行いましたが、我が家の教育の中心は子供達が神様との関係をしっかりと持って欲しいということで、毎日神様に思いを向けて祈り、聖書を読み、感じたことをノートにつけるという時間を必ず持ちました。その結果、現在でも子供達は毎日神様に思いを向けて祈って、聖書を読んで、ノートをつけるという習慣を持っているだろうと思います。これは良かったと思っています。

その目的は「神様を中心にして生きる」ことだった

ただ、こうして毎日ブログを書くことで私自身よりはっきりとして来たことは、毎日祈って、聖書を読むことは一つの方法、手段であって、その目的は神様を中心とした生活をすることだったということです。そこに正しい生き方も、どんな問題の解決も、人間的な成熟も、本当に幸せな人生もあります。もちろん、だから子供達に毎日祈って、聖書を読んで、感じたことをノートにつける習慣を身に付けさせた訳ですが、その目的をもっと明確に教えられたら良かったかなあと思います。

目的と手段を混同しないようにしましょう

そういう意味で、目的と手段を混同しないで、「神様を中心とした生活をすること」が目的。そのための手段として、毎日祈り、聖書を読みなさいと教えられたら、なお良かったなあと思う今日この頃です。子供が直面するあらゆる課題に対して、親が一緒にいて、「神様を中心とするなら、どう考え、どうすべきだと思うか」と子供に問いかけることができたら、それは素晴らしい教育ではないでしょうか。やがて子供がそのように自問しながら生きることができるようになれば、本当に幸せな人生を生きることができるようになると思います。それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみます。皆様が神様を中心とした生活をするための参考になれば幸いです。

新約聖書 ルカの福音書11章29~36節

「さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。『この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡(ます)の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。』」

人となった神様であるイエスがしるしです

イエスは何のことを言っているのか、分かりづらいですね。とりあえず私はこう思うということを書いてみますので、参考にしてみてください。「しるし」というのは、確かにこれは神様の力だと分かる、証拠となるような奇跡という意味だと思います。人々はそういう証拠を求めるけど、ヨナのしるし以外にはありません。ヨナというのは旧約聖書に出てくる人です。神様から離れ、悪い生活をしているニネベという大都市の人々に、悪いことをやめて、神様を中心とした生活をしてくださいと言いました。このヨナのように人の子、つまり人となった神様であるイエスがこの時代のしるしとなる。それ以上の証拠がある訳ではないということではないでしょうか。

「さばきのとき」がある

「南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。」 まず、「さばきのとき」というものが言われています。私たちがこの地上でどのように生きたのか、それがさばかれるときということかもしれません。怠惰に流れやすい、また分かっていても神様中心ではなく、自己中心になりやすい自分に対して、それは抑止力になると思います。「彼ら」とは誰のことを言っているのか。人となった神様であるイエスに悪意を抱き、神様に敢えて反逆する人々のことかもしれません。ここでイエスは自らをソロモンよりもまさった者、ヨナよりもまさった者としてはっきりと示しているようです。

神様の光を中心とした生活

神様は光です。誰にでもはっきりと分かるように、その光が掲げられています。それは特定の宗教のことではないと思います。神様のことを言っていると私は思います。この神様を中心にした生活をするなら、私たち自身明るく輝く人生を経験します。でも、拒絶するなら暗やみに閉ざされた人生になってしまいます。暗やみにならないように気をつけなさいとイエスは言ったのではないでしょうか。