人生の目的

何事も目的が大切ですね

何事でも目的が分からないと、意味も分からなくなってしまうと思います。今一度、人生の目的を確認する必要があると思います。私たちは何のために生きるのでしょうか。それは神様を中心にした生活をするためだと私は思います。そのためであれば、たとえ困難があっても、そこには意味があり、人生のやりがいと幸せがあります。しかし、そうでなければ虚しさと後悔を感じることになると思います。

人生は快適ならそれで良い訳ではないでしょう

快適な人生を送ることも悪いことではありません。でも、人生は快適に過ごせばそれで良いということでもないでしょう。私は何のために生まれて来たのか。その目的を果たしてこそ、本当に私の人生はこれで良いと言い切れる人生になると思います。それは単なる自己満足ではなく、神様の中にあります。神様の願い、神様の思いを中心にして生きること。それが人生の目的です。

一人ひとりに神様の計画があります

具体的には何をすることなのか。それは一人ひとりが神様を中心とする中で深めて行くことだと私は思っています。一人ひとりに違った神様の計画があると思います。参考にするのは良いと思いますが、安易に宗教や誰かの教えを鵜呑みにすべきではないというのが私の考えです。

例えば坪井直さんの言動は神様を中心とする言動だと思います

昨日、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に際し、日本原水爆被害者団体協議会の代表で、自らも被爆者である坪井直さんが、オバマ大統領の広島訪問を振り返りながら、アメリカに対する憎しみという感情ではなく、平和な世界の実現に向けて手を結び合うことを選び取ることの大切さについて語っていました。個人的な感情はない訳ではないでしょう。しかし、それを中心にして生きる人生ではなく、共に赦し合って世界の一致を目指す。それは神様の思いを中心にすることに他ならないと私は思います。たとえば、このように生きることは人生の目的に適っていることだろうと私は思います。それを見聞きする私にも人間は捨てたものではないという喜びを感じさせてくれた出来事でした。

どうぞ自分の感情ではなく、神様を中心にして生きることを考えてみてください

そのために「日本人の信仰と聖書について考える会」では、毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めしています。今日も聖書の続きを少し読んで、私が考えたことを書いてみますので、皆様の参考にしてください。

新約聖書 ルカの福音書10章25~37節

「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。『先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』 イエスは言われた。『律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。』 すると彼は答えて言った。『『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。』 イエスは言われた。『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか。』 イエスは答えて言われた。『ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。』 彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』 するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』」

「神様を中心にして生きること」とイエスは教えました

律法とは旧約聖書にある律法のことを指していると思いますが、律法の専門家という人がいました。「永遠のいのち」とは、単なる不老長寿ということではなく、律法の専門用語ですが、今日のテーマで言えば「人生の目的」と言い換えても良いと思います。それは「神様を愛して、神様を中心とした生活をすること」であり、実際に「隣人を愛して、隣人の益となる生活をすること」。それがいのちです。つまり、それこそが私たちの生きる目的です。

聖書の解釈がどうのとか、そういうことではありません

イエスは「それを実行すれば、いのちを得ます。」と言われました。でも、この律法の専門家は「私の隣人とは、だれのことですか。」と質問しました。「その場合の隣人の定義とは何ですか」という質問だと思います。しかも、自分の正しさを示そうとして、そう言ったとあります。どうも聖書の専門家とか、宗教の専門家の傾向なのか、こんな風にならないように注意したいですね。隣人の定義とか、この聖書の言葉の解釈はどうかとか、神学的にはどうなのかとか、そういうことではありません。神様を中心にして生きること。そして隣人の益となる生活をすること。誰でも分かることだと思います。それを実行すれば、いのちを得るのです。

あなたも行って、同じようにしなさい

でも、イエスは怒らないで、一つの例えを話されました。祭司もレビ人も宗教家たちです。気付いていましたが、彼らは助けませんでした。きっと自己正当化の理屈はあったのでしょう。この律法の専門家を指して言っているのかもしれません。サマリヤ人というのは、実はユダヤ人が差別していた人たちなんです。強盗に襲われた人というのはユダヤ人でしょうから、人間的に言うなら、このサマリヤ人はここぞとばかりに仕返ししてもいいくらいなんだと思います。でも、このサマリヤ人はそうしなかった。それもいやいや最低限ではなく、これでもかというくらいに最高に助けた。それは自分の思いではなく、神様の思いを中心にして生きること。それが「永遠のいのち」であり、私たちが生きる人生の目的だと思います。理屈ではなく、そのように生きる人だけが、その喜びを体験するんだと思います。そういう人生を生きましょう。