具体的には子供に何を教えることなのか

神様を中心とした生活とは

金曜日のテーマは「子供の教育」です。子供に神様を中心とした生活を教えることが有益だとお伝えしております。具体的には神様を中心とした生活とはどうすることなのでしょうか。いくつか書いてみたいと思いますので、参考にしていただきたいと思います。

子供にとっては親に聞き従うことは神様を中心にすることだと思います

子供にとって、自己中心ではなく、親に聞き従うことは神様を中心にすることになると思います。どんな子供でも自分がしたいことをしたい時にしたいものでしょう。もちろん、十分に遊んで満足感を得ることは大切なことだと思います。でも、無制限ではいけないと思います。適切な制限を設けることは、子供の自制心を育み、社会にはルールがあることを学ぶことになると思います。

親の権威と責任

何が適切な制限なのかということについては、親の良識や常識が問われることだと思います。不適切な制限を設けて、子供を抑圧してはいけませんが、それでも子供は止めなさいと親に言われたら、それに従うことは正しいことであり、神様を中心にすることだと教えることは大切なことだと私は思います。親にはそのような権威と責任が神様から与えられていると私は思います。誰も完全な親はいませんが、その責任を放棄してはいけないと思います。

神様を意識させる

しかし、ただそれを守れば良いということではないと思います。子供にはいつも神様を意識させることが大切だと思います。「お父さんが止めなさいと言っているのに、止めないで続けることは良いことですか。それは神様が喜ばれることですか。」 そう子供に聞いてみてください。不思議なことですが、難しい話は分からない幼児であっても、神様のことは分かると思います。それが神様に喜ばれることかどうか判断できると思います。

神のかたち

それは人間には生まれながらに神様から良心が与えられているからだと私は思います。この点において人間は他の動物とは決定的に違うと思います。それは、人間は「神のかたち」に造られているからだと思います。旧約聖書にそう記されています。この良心に働きかけること。神様を意識させること。それは動物の調教とは全く違います。自らの良心で神様の思いを中心にして生きる。それが人間らしさだと私は思います。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様に思いを向けましょう。

新約聖書 ルカの福音書20章9~19節

また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。

そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』

ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』 そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」

これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた。

神様を中心とした生活は人間として当たり前のこと

人は神様によって意義と目的を持って造られました。その目的である神様を中心にして生きることは人間にとって当たり前のことでしょう。ぶどうの収穫を主人に納めるのは当然のことだと思います。このぶどう園の主人の息子とは神様の子であるイエスご自身のことを指して言っているのだろうと思います。祭司長、律法学者たちはその息子を殺そうと企んでいました。これは民衆に語られたイエスのたとえですが、人々は「そんなことがあってはなりません」と言いました。誰でもそう思うと思います。

神様に敵対するなら自分に滅びをもたらしてしまう

「家を建てる者たちの見捨てた石」とは、イエスご自身のことを指して言っているのではないかと思います。実はそれが礎の石だと言っています。旧約聖書にそう書いてあるとイエスは言っているのだと思います。この石に敵対する者は自分自身が砕けてしまいます。律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさして言ったと気づきました。でも、彼らはイエスを神様として受け入れずに、自分たちの思いを中心にし続けたのだと思います。

キリスト教ではありません

それは結局、自分の身に破滅をもたらしてしまうことになります。神様を中心とせず、むしろ背を向けるからです。イエスは人となった神様だと思います。イエスを神様として受け入れることは神様を中心とすることだと思います。しかし、それは決してキリスト教徒になることではありません。日本人が太古の昔から崇めて来た神様を中心とすることに他なりません。