プロテスタント?カトリック?何が問題でしょう?

鵜呑みにしないで吟味すること

水曜日のテーマは「キリスト教、宗教」です。皆様の中にはキリスト教会に通っている方もいらっしゃると思います。私も以前はそうでしたが、キリスト教は正しいという前提に立っていると見えなくなってしまう現実もあるのではないかと思います。今日は、キリスト教にもこんな問題があるのではないかと思うことを書いてみます。最終的に皆様がどのような考え方を持つにしても、前提について吟味してみることも有益なことではないでしょうか。

神様でない物に神秘的な力を期待することは偶像礼拝でしょう

プロテスタント・キリスト教会はキリスト像やマリヤ像を作って拝むことは偶像礼拝だと言ってカトリック教会を批判することがあるようです。確かにそのような像に何か神秘的な力を期待するのであれば、それは偶像礼拝かもしれません。神様は霊的な存在であって、決してそのような像でないことは明らかだと思います。

物自体ではなく、それをどう見ているのかが問題

でも、プロテスタントのクリスチャンでも十字架のペンダントを身に付けて、災いから守られるという神秘的な力を期待するとしたら同じことでしょう。しかし、どちらも神様に思い向けるための道具にすぎないというなら、偶像礼拝ではないと思います。神様の戒めを思い起こさせるために、衣の裾にふさを付けるように神様が命じられたことが旧約聖書に記されていますが、そのことを思い起こします。

神様の「みことば」とは何か

同じように、プロテスタント・キリスト教会が聖書の言葉を「みことば」と呼んで神格化し、神秘的な力を期待するとすれば、それは偶像礼拝ではないかと思いますが、いかがでしょうか。神様は決して固定化された言葉ではなく、生きて働いて語り掛けられる霊的な存在だと私は思います。もちろん、神様は聖書の言葉を通して私たちに語られることもあると思います。でも、聖書でない言葉を通して語られることもあると思います。大切なことは生きて働いておられる神様ご自身が私たちに語られるということであって、それが「みことば」ではないでしょうか。

聖書の言葉を「みことば」とすることの弊害

ですから、聖書の言葉の意味を正しく理解するために聖書の研究をすることは必要なことだと私も思いますが、それを固定化され絶対化された神様の御心だとすることは間違いだと私は思うようになりました。そうやってプロテスタント・キリスト教会は自分たちの聖書解釈を絶対化するようになれば、正統と異端という判断を下すようになり、排他的になり、分裂の歴史を歩むしかなくなってしまうように思います。

神様の霊に触発された言葉は有益

パウロという人がテモテという若い牧師に宛てた手紙の中にこのような言葉があります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」 この「聖書」とは「旧約聖書」を指していると思いますが、それはすべて神に霊感されて書かれたもの。つまり、神様の霊によって触発されて書かれたものだということでしょう。だから、有益だと言っています。

聖書以外にもたくさんあるでしょう

新約聖書もそれに準じて考えられると私は思いますが、神様の霊によって触発されて書かれた文章はそれ以外にもたくさんあると思います。また、パウロもここで有益だと言っているのであって、絶対だとは言っていないことにも注意したいと思います。それは大変参考になるという意味だと思います。

個人的に語られる神様の「みことば」

でも、神様の「みことば」というのは、そういうレベルのものではないと思います。それは声なき声をもって私の心に語られ、動かない確信をもたらすものだと私は思います。そして、それは生きて働いておられる神様が私に語られた「みことば」であって、決して普遍化することも、そのまま他人に適用することもできないものだと思っています。

聖書の言葉と神様の「みことば」を区別する

それでも、神様はこの二千年の歴史の中でキリスト教を用いて、多くの人々を神様のもとに導き、神様を中心とした生活をすることが出来るようにしてくださったことも事実だと私は思っています。でも、それは一つの手段であって、神様を中心とした生活をすることができるのなら、キリスト教を通してでなくても良いというのが私の考えです。それでは、今日も聖書の続きを読みましょう。それは私たちが神様を中心とした生活をするために大変有益な書だと私は思います。

新約聖書 ルカの福音書18章24~30節

イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」 イエスは言われた。「人にはできないことが神にはできるのです。」 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」

人にはできないことが神様にはできる

らくだが針の穴を通る可能性はゼロでしょう。金持ちが神の国に入る可能性はそれより低い。ゼロ以下!当時も今も、金持ちというものは神様に祝福されている人と考えられていたのではないでしょうか。その人でさえ救われないと言うなら、だれが救われるのでしょう。そういう反応ではないでしょうか。イエスは「人にはできないことが神様にはできる」と言われました。諦めないで、神様に祈り求めましょう。神様を中心にすれば、この金持ちもまた、全く違う人生を生きることができるようになるのではないでしょうか。

神様を中心にすることの大きな祝福

キリスト教徒になるためではありません。「神の国」のためとイエスは言っています。それは神様を中心にする生活のことだと思います。そのために「家、妻、兄弟、子どもを捨てる」とは、それを中心にしてはいけないということであって、文字通り捨てることではないと思います。中心は神様でなければならない。そうすれば、この世にあって大きな祝福を受けます。いろいろな問題が解決します。そして、後の世で必ず永遠のいのちを受けると言っているのだと思います。ポイントは神様を中心とした生活をすることだと思います。