神様を中心に隣人を愛する人間関係のポイントとは

神様を中心にして、隣人を愛して生きる

洗礼を受けるとか、教会に通うとか、仏壇を拝まないとか、そういうことではなく、神様を中心にして、隣人を愛して生きるとはどういうことなのか。人間関係、人生の目的、恋愛・結婚、子供の教育などのテーマでお伝えしています。木曜日のテーマは「人間関係」です。

人間関係のポイント

神様を愛して、隣人を愛して生きるという観点から人間関係について考えるなら、人から何かをしてもらうことを期待したり、要求したりすることではなく、自分は人に何をしてあげることができるのかということに思いを向けることが大切だと思います。

不満の原因と対策

対人関係における一つの不満は、自分が思ったようには、人は自分にしてくれないということではないでしょうか。ですから、そこに思いを向けるのではなく、自分はその人に何をしてあげることができるのかということに集中するなら、そのような不満から解放されると思います。そして、その人との関係は良好なものになるでしょう。

動機をチェックする

でも、人に何かをしてあげることに思いを向けていたとしても、その動機が人から良く思われたいということであったり、その見返りを期待していると、こんなにやってあげているのに、あの人は自分が思ったように感謝もしてくれないと、また不満につながってしまいかねません。だから、神様を中心にすることが大切だと思います。

ポイントは神様を中心に、隣人を愛すること

何か見返りを求めて、その人からよく思われたいという動機で、その人に何かをしてあげるのではなく、それを神様が喜んでくださるので、という動機でしてあげるのなら、そのような不満から解放されると思います。だから、あくまで神様を中心にして、隣人を愛して生きることがポイントだと思います。

私の失敗を繰り返さないために

私はこれまでキリスト教という宗教には熱心で、休まず教会に通ったり、献金したり、牧師もしてきましたが、このように神様を中心にして、本当に隣人のために生きて来なかったのではないかと反省しています。皆さんにはそのようになって欲しくないと思っています。

神様を中心にすることとキリスト教を熱心にやることとは別のこと

もちろん、中心は神様だと思います。今日書きましたように、隣人を愛する生活も中心がずれるとおかしくなってしまいます。そのために毎日時間を決めて神様に思いを向けて祈り、聖書を読むことをお勧めしています。しかし、それはキリスト教を熱心にやることではありません。むしろ日本人としての良識、常識、良心で感じることを大切にすべきだと思っています。それでは今日も聖書の続きを読んで私が考えたことを書いてみます。皆様の参考にしてください。

新約聖書 ルカの福音書17章22~37節

イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ』とか、『あちらだ』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」 主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」

世界の終わりのような状況

パリサイ人、律法学者、体制側の人たちとの対立が明らかになり、イエスの十字架の死が近づく中で、弟子たちに語られたイエスの言葉です。「人の子」とは、人となった神様のことで、イエスご自身のことを指して言っていると思います。イエスが十字架にかけられた後、人々が日常の生活をしていると、洪水や火や硫黄にたとえられるような災いが突然この世界を襲うが、イエスが再び来られて、救い出してくださるということを言っているのかもしれません。

神様を待ち望む生活

「主よ。どこでですか。」 弟子たちはイエスの言葉をどう理解して、このような質問をしたのか分かりませんが、イエスは「死体のある所」と答えられました。「そこに、はげたかも集まる」と言われました。どういう意味なのでしょうか。良く分かりません。ただ、イエスが来られるのは、いなずまがひらめくようだと言われました。その時、誰もが皆、それは神様だと分かるということではないでしょうか。確かに今は世界の終わりが近づいているような状況にも思えます。ますます神様を待ち望み、隣人を愛して生活することが大切ではないでしょうか。