クリスチャンになって悪化したこと

クリスチャンになって悪くなったこともあります

水曜日のテーマは「キリスト教、宗教」です。私は30歳の時にクリスチャンになりました。クリスチャンになって良かったこともありますが、今振り返ってみると、かえって悪くなったこともあったと思います。皆さんが私と同じではないと思いますが、同じ問題に陥らないように、私の反省を参考にしてみてください。

私は本当の事が知りたいと思っていました

私は心の支えが欲しいとは思っていませんでしたし、宗教に頼りたいとも思っていませんでした。人は何のために生まれ、何のために生きるのか知りたかったのです。当時、高校の教師をしていた私には楽しいこともありましたし、それなりに打ち込める事もありました。でも、それは何のためなのか、このような毎日を続けることで、結局何を成し遂げることになるのか。それを求めていました。

キリスト教に熱心になったことは間違いだったと思っています

そんな時、私に神様のことを伝えてくれる人がいて、私はクリスチャンになったことは以前にこのブログでも書いた通りです。神様こそ私の生きる意味であることを知ったことは、私の人生で最大で最高の出来事だったと思います。そして、私は洗礼を受けてクリスチャンになりましたが、キリスト教という宗教こそ真理と受け止め、キリスト教に熱心になったことは間違いだったと今は思っています。

私は正しいことをしていると思っていました

日曜日は何よりも教会の礼拝を優先し、私が教師として勤める高校の卒業式が日曜日に重なった時、私は礼拝を優先しました。また、収入の10分の1は教会に献金しました。仏壇、神社、お墓参りはしなくなりました。それまで浴びるほど飲んでいたお酒も止めました。まあ、それは健康のためには良かったと思いますが・・・。私は正しいことをしていると思っていました。

頭で考える神学が優先してしまった

もちろん、単にキリスト教の伝統を真理だと受け止めたということではなく、その根拠は聖書にあると学んだので、もっと聖書を学ぶために神学校にも入学しました。間違いだったと思うのは、そうやって学んだ聖書解釈を絶対化したことだったと思います。つまり、私は心で感じることよりも、頭で考える神学を優先させたと思います。それはもともと理屈っぽい私の性質が災いしたと思いますが、聖書こそ真理だと考えることによって、それが益々強化されてしまったように思います。

大切なことは聖書解釈ではなく、心で感じること

神様は神学ではなく、私たちの良心に働きかけてくださっているので、それを大切にしなければいけないと今は思います。神様は私たちがキリスト教という宗教をやることではなく、神様を愛して、隣人を愛して生きることを願っておられると感じています。これまで私はキリスト教には熱心だったかもしれませんが、隣人を愛して生きることにはそれほど熱心ではなかったと反省しています。皆さんが私と同じ過ちを犯す訳ではないと思いますが、何か参考になれば幸いです。それでは今日も聖書の続きを読んで、神様を中心にすることについて考えてみたいと思います。

新約聖書 ルカの福音書17章20~21節

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

「神の国」は理屈ではない

やはり「神の国」は頭で考えて、理屈で説明すべきものではないことを思わされます。それは神様を愛して、神様に感謝して、神様を崇めて、神様を中心にして生きることでしょう。何が正しいことなのか。それは聖書解釈や神学ではなく、私たちの良心で判断すべきことだと思います。それは説明ではなく、実際に良心が正しいと示すことを実行して生きること。そうすれば実感できることではないでしょうか。

3歳の幼児も分かる

私は今、幼児教育にも携わっていますが、3歳の幼児でもそれが分かることを体験しています。お父さん、お母さんの言うことに反抗することは良い事なのか。お友達をいじめることは良い事なのか。幼児に聞いてみると、それはいけないことだと良く分かります。それは神様に喜ばれないことだと良く分かります。それを止めてくださいと言えば、止めます。そうすると心がすっきりとして、明るい子供になります。でも、反抗や悪い行いを止めさせないで、そのままにしていると心が晴れず、不満の多い子供になることを実際に見ています。

もっと隣人を愛して生きよう

自分が使いたいおもちゃでも、お友達に貸してあげることは神様に喜ばれることだと幼児も分かるみたいです。それを貸してあげると、自分も嬉しいことを幼児も体験するようです。皆さんの中には、もともとそうやって生きている方も多くいらっしゃると思いますが、これからは私ももっと隣人を愛して生きようと思います。それだけで人生が終わってもいいんだと思います。