日本の神様は聖書の神様

日本の神様は本当の神様なのですか

月曜日のテーマは「日本とイスラエル」です。あなたは聖書の神様はキリスト教の神様だから、西欧の神様だと思っていますか。また、日本の神様は聖書の神様ではないから、本当の神様ではないと思っている方もいらっしゃるでしょうか。実は日本人が太古の昔から崇めて来た神様は天地万物の創造主であり、聖書に記されている神様であることを知っているでしょうか。大切なことは神様を中心とした生活をすることであって、キリスト教徒になるということではありません。

日本人とユダヤ人の関係が広く知られるようになってきました

昨日、本屋さんの店先に坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」という本が平積みになって売っていましたので1冊購入しました。古代日本にイスラエル系渡来人があり、日本人の信仰、文化、伝統に大きな影響を与えたという事が、一部の人だけが知る専門的な内容ではなく、広く一般的にも知られるようになって来ているんだなあと感じさせられました。その本の中からいくつかご紹介させていただきます。

虎がいない日本でなぜ「虎の巻」なのか

困ったりわからなくなったりする時に開く大切な巻物のことを『虎の巻』と言います。しかし、日本に虎はいません。ということは、これは動物の『虎』ではありません。おそらくこれはイスラエルの『トラー(モーセ五書)』のことに違いありません。トラーは巻物です。私たちユダヤ人はどんな時にもトラーを通して神様の意志を知ります。つまり、『トラーの巻物』は知恵と霊感の源なのです。それが日本に伝わって『虎(トラ)の巻』になったのでしょう、とヘブライ大学名誉教授のベン=アミー・シロニー氏は言っています。

日本の神社とイスラエルの「会見の幕屋」の類似

まず入口だが、神社には2本の柱で作られた鳥居がある。同じように、古代ユダヤの神殿にも2本の柱が建っていたという。そして面白いことに、ヘブライ語の方言であるアラム語では「入口」のことを「トリイ」というのだ。また、神社には手水舎(ちょうずや)があって、神の前に出る前に、水で清める。これはユダヤ教と神道に共通した習慣らしい。また、ユダヤの神殿には賽銭箱があったが、日本の神社にも必ずといっていいほど賽銭箱がある。さらに古代イスラエルの神殿の構造は、「聖所」と「至聖所」に分かれていたが、これも日本の神社と同じだ。(本からの抜粋は以上です。)

日本人の神様は聖書の神様

これらは偶然の一致ではなく、日本人の神様は聖書の神様である証拠だと思います。それは西欧で発展したキリスト教とは伝統も形式も大きく違います。私たち日本人はキリスト教徒になるのではなく、日本人として神様を中心に生活することが聖書の信仰だということをご理解いただけると思います。どうぞ聖書に関心を持ち、すでに教会に通っている方もいらっしゃると思いますが、キリスト教の形式に囚われないで、神様を中心とした生活をしてください。それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみますので、宗教とは関係なく、神様を中心として生きるための参考にしてみてください。

新約聖書 ルカの福音書17章5~10節

使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」

信仰は不可能を可能にするもの

イエスが弟子たちに、「あなたに対して一日に七度罪を犯す人がいても、『悔い改める』と七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と教えると、使徒たち(弟子たちの中でも12人は使徒と呼ばれた)が、「私たちの信仰を増してください」と言いました。七度も赦すためにはもっと強い信仰がないと無理だと思ったのでしょうか。イエスの答えは、信仰は強い弱いではなく、あるかないかの問題だと言ったのではないでしょうか。もし、信仰があるなら、不可能が可能になる。それが信仰というものだ。そういうことでしょうか。

「はい」と言って赦すこと

続いて、「しもべ」とはどういうことかイエスは話されました。ポイントは言いつけられたことをするのは当たり前のことで、全部やったら、特別立派な訳ではありません。当たり前のことをしただけですと言いなさいということでしょう。神様を中心にするとはどういうことでしょうか。赦しなさいと言われたら、「はい」と言って赦すことではないでしょうか。とても私には無理ですとか、どうか赦せるように私を変えてくださいと祈ることではなく、「はい」と言って赦すこと。それで当たり前のことをしたに過ぎませんと生きること。それが神様を中心とするということだと言っているのではないでしょうか。日本人は太古の昔から、こういう心を大切にしてきたんだと思います。かっこいい生き方だと思いませんか。