良い人間関係を築く会話。気を付けることは?

確かに話すことより聞くこと

木曜日のテーマは「人間関係」です。今日は良い人間関係を築くための会話について、私が気を付けていることを書いてみたいと思います。参考にしてみてください。よく言われることですが、確かに相手の話をよく聞くことは大事だと私も思います。話を聞いてあげることの効果は思いのほか大きいと思います。話すことより、聞くことに努めてみましょう。

聞くことは結構難しい

しかし、自分のタイプにもよりますが、話を聞いていると、思わず自分の意見を言いたくなりませんか。極端な場合、相手の話がまだ終わらないうちから、もう自分の意見を言いたくて言いたくて、うずうずして、早く終わらないかなあという感じになって、ちっとも相手の話が頭に入って来ないなんてことはないでしょうか。

やってみる価値は大いにある!

でも、話を聞くというのは、自分の意見を差し挟まないで、まず聞き尽すということです。自分の意見は持っても良いのですが、まずはそれは棚上げしておいて、相手の言葉を聞き洩らさずに聞いて、その気持ちを受け止めて、言いたくても言えないところまでも分かってあげて、共感するということですが、それには練習も必要だと思います。でもやってみる価値は大いにあると思いますよ。

相手の話を取らない

「私、チョコレートパフェが好きなんだよね」と言われたら、「私はフルーツパフェ」なんて言わないで、「へー、チョコレートが好きなの?他にはどんなのが好き?」という感じで相手の話を取り上げないように話を進めることを心がけると良いと思います。また、誰でも愚痴や悪口を聞くのは嫌だと思いますが、そう言わずにはいられないようなことがあったんだねという気持ちで聞いてあげることを心がけると良いと思います。

どんな時にも味方になってくれる人

人は誰でも自分の気持ちを分かってくれる人、自分でもそれは悪いことだと分かっていても、その気持ちを受け止めてくれる人、つまりどんな時にも味方になってくれる人を必要としていますし、求めていると思います。そして、そういう人が世界中で一人でもいれば、人は生きて行くことができるんだと私は思います。実はそれは神様なんです。神様はそのような方、どんな時にも私の味方だというのが私の確信なんです。

神様はいつでも味方

どのようにしてその確信を持つようになったのかというと、実は一所懸命に人の話を聞いて、たとえその人がどんなことを言ったとしても、意見しないで、非難しないで、分かってあげようと努めていた時に、そして、それは決して簡単ではないと実感した時に、どんなに神様が私を愛して、私の理解者になって、どんな時にも私の味方になってくれているのかということを実感したんですね。

愛することに努めると分かる愛

それは愛の一つの形だと思います。そうやって愛のない私でも、一所懸命に人を愛そうと頑張ったら、どれだけ神様に愛されているかを実感したんだと思います。愛は求めていると分からないものですが、愛することに努めた時に分かるものなんだなあと思います。自分の意見はまったく言わずに、ずっと相手の話を聞き続けることは難しいかもしれませんが、時間を決めてチャレンジしてみる価値はあると思いますよ。応援しています。それでは今日も聖書の続きを呼んで、神様に思いを向けてみましょう。

新約聖書 ルカの福音書20章1~8節

イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエスに立ち向かって、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」 そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」

すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」 そこで、「どこからか知りません」と答えた。するとイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。

天の権威

祭司長、律法学者、長老といった体制側の人たちは、誰の許可でこんなことをしているのかという意味で言ったのかもしれません。しかし、イエスはそれには答えずに、天からの権威と人からの権威ということについて質問されました。単なる人間的な権威ではなく、天からの権威、つまり、神様から来る権威というものに目を向けることが大切なことだと思います。

権威の座に座るのは誰か

彼らは知らない訳ではないと思います。分かっているんだと思います。それでも、自分たちが権威の座に居座って、神様の権威に従おうとしないということではないでしょうか。神様は全てを超越する権威ですね。どんな理由をつけようとも、正しいことは正しいし、悪いことは悪いし、それは私たちの良心は分かっているのではないでしょうか。この宗教ではこう、あの宗教ではこうという話ではありません。ポイントは神様の権威を中心にするのか、いつまでも自分が権威の座に座るのか、ということではないでしょうか。