うまくやることではなく、正しくやること
木曜日のテーマは「人間関係」です。人が生きて行く上で「人間関係」の問題は避けられないと思います。それは喜びをもたらしてくれますが、時に悩みにもなります。私はうまくやることよりも、正しくやることを心掛けることが大切ではないかと思っています。なぜなら、世の中にはいろいろな人がいる以上、全ての人とうまくやることは不可能ではないでしょうか。にもかかわらず、うまくやろうとすればストレスになると思います。「人間関係」については、うまくやることではなく、正しく理解し、正しく対応することが大切だと私は思います。
それぞれ神様の前に生きる者だという理解がポイント
まず、出来ることと出来ないことを識別することだと思います。自分で出来ることはやってみたら良いと思いますが、出来ないことを悩んでいても気が重くなるばかりだと思います。ポイントはその境界線の見極めだと思います。そのためには、人は皆、神様の前に生きている者だと理解することが大きな助けになると思います。最終的には、人は神様の前に、それぞれ自分の人生の申し開きをする者だと理解することです。そうすると、まず私は私であって、あの人はあの人という自立した人間観を持つことができるようになると思います。たとえ、あの人がどういう人であったとしても、基本的にはそれは私とは何の関係もない問題だと思います。そして、私は私の問題として、神様の前に正しく生きる。これが全ての人間関係を正しく取り扱う出発点になると思います。
その上で、人のために何か出来ることはないかと考えることができる
それぞれが神様の前に生きる者だという自立した人間観を持って初めて、本当の意味で人のために生きることができるようになると私は思います。その動機が人からの見返りではなくなるからだと思います。私たちは神様の前に生きる者として、人を愛して生きる。それが正しい人間関係のポイントだと思います。
人を愛し、人を助ける者として、人と関わる
たとえば、話を聞いてあげることができると思います。気持ちを受け止めてあげて、分かってあげる。多くの場合、アドバイスよりも、受け止めてあげる方が大きな助けになるようです。これであれば、特別な知識や経験がなくても出来るのではないでしょうか。時には愚痴であったり、不満であったり、苦い気持ちも出て来るかもしれません。もちろん、一緒になって誰かの悪口を言ったりすることのないように気を付けなければいけませんが、そんなネガティブな気持ちを受け止めてくれる人はなかなかいないと思います。ポイントは神様を中心にすることだと思います。それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみたいと思います。神様を中心とすることの参考にしてみてください。
新約聖書 ルカの福音書16章14~18節
さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。
神様の基準で生きる
このイエスの話のポイントは人間の基準ではなく、神様の基準で生きることが大切だということだと思います。たとえ人間的に高い評価を受けていたとしても、神様の目から見たらどうなのかと言っているのだと思います。人の目は誤魔化せたとしても、神様の目を誤魔化すことはできません。良心はそのことを良く知っていると思います。これは宗教の話ではないと私は思います。
神はあなたがたの心をご存じです
ですから、人間の間であがめられる者は必ず神様の前に憎まれるということではなく、神様の目にはどうかということを言っているんだと思います。パリサイ人というのは、ユダヤ教の戒律を厳格に守ることを指導する人たちですが、もともとは神様の戒めではあっても、彼らはそれに自分勝手な解釈を加え、表面的な宗教にして、神様の心からは離れてしまっていたんだと思います。大切なことは本当に神様の思いを中心して、神様の前に正しく生きようとすることだと思います。それを神様は良しとしてくださるというのが、「神の国の福音」という言葉の意味だと思います。
神様を中心とした人間関係
人間関係において、人からどう思われるかということを中心にするのではなく、神様に喜ばれることを中心にすることが大切だと思います。それが「神の国」であり、そこに答え、つまり「福音」(良い知らせという意味)があるということだと思います。それは神様の前に正しく生きることであり、たとえどのような人であったとしても、私たちができる力に応じて、その人を愛して、受け入れて、励まして生きることではないでしょうか。そこに私たち自身の生きる喜びもあると思います。