クリスチャンの信仰に関心はあるけれど
水曜日のテーマは「キリスト教、宗教」です。読者の皆様の中には聖書には関心がある、教会にも行ったことがある、クリスチャンの信仰に好感を持っているけど、いろいろな事情があってクリスチャン(キリスト教徒)になることは難しいと考えている人がいるのではないでしょうか。私は、クリスチャン(キリスト教徒)にならなくても、聖書に書いてある神様の祝福をいただいて生きることは出来ると思っています。皆様にそのことを知っていただきたいと思っています。
大切なことは神様を愛して、隣人を愛して生きること
聖書は決して洗礼を受けてキリスト教会のメンバーにならなければ救われないとは言っていないと私は思います。大切なことは宗教をやることではなく、神様を愛して、隣人を愛して生きることだと思います。次のイエスと律法の専門家のやり取りをお読みください。
新約聖書 ルカの福音書10章25~28節
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
大切なことは聖書の知識ではないと思います
「永遠のいのち」とは「救い」と言い換えても良いと思います。また、「人生の目的」と言ってもいいかもしれません。「私たちの生きる意味」と言う事もできるかもしれません。それは難しい話ではないと思います。必ずしも聖書について専門的に学んで、キリスト教会の指導者としての資格がある人の話を聞かなければ分からない話ではないと思います。むしろ、この律法の専門家のような人ほど聖書を頭で考える傾向があるので注意しなければならないと思います。
大切なことは「神様を愛して、隣人を愛して生きる」こと
大切なことは神学的にどうのこうのという難しい話ではなく、「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」ということだと私は思います。どうぞクリスチャン(キリスト教徒)になることではなく、いつも神様を愛して、祈って、聖書を読んで、隣人を愛して生きましょう。そうすれば「いのち」を得ます。それでは、今日も聖書の続きを読んで、私が考えたことを書いてみますので、皆様の神様を中心とした生活の参考にしてください。
新約聖書 ルカの福音書16書1~13節
イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、「私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、その人は、『油百バテ』と言った。すると彼は、「さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい』と言った。それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい』と言った。この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実です。小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
弟子たちはどう受け止めたのか知る由もありませんが
「主人は、不正な管理人をほめた。」「不正の富で友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを永遠の住まいに迎える。」 どういうことなのでしょうか。パリサイ人、律法学者、体制側の人たちとの対立を目の前にして、またイエス自身も間もなく取り去られることも踏まえて、弟子たちに何を意図して語られたのか。このイエスのたとえ話を聞いて、弟子たちはどう受け止めたのか。知る由もありませんが、私が考えたことを書いてみます。
現実の生活を忠実にすること
信仰は単なる理想論ではなく、現実的な生活を忠実にすることが大事だということを私は思わされます。お金の話など信仰とは関係ないということではなく、お金を忠実に管理し、用いることは大切なことだと思います。でも、お金に仕えている訳ではありません。神様の思い、正しさに従って、忠実に用いることだと思います。しかし、この不正な管理人のやり方は神様の前に正しいと言えるのでしょうか。よく分かりませんが、その許された権限の範囲内のことなのかもしれません。