恋愛と結婚は別物というアンケート結果
土曜日のテーマは「恋愛、結婚」です。インターネットである「恋愛と結婚に関するアンケート」の結果を見ました。対象は20代から60代の既婚男女ですが、その中に「恋愛と結婚は別物だと思いますか」という質問がありました。39.9%が「そう思う」と答え、32.8%が「まあまあそう思う」と答えていました。つまり、既婚者の7割以上の人が「恋愛と結婚は別物」だと考えているという結果です。
結婚前の交際人数が多い人ほど、その傾向が強い
結婚前の交際人数別にその割合を見ると、結婚前の交際人数が0人、つまり初めて交際した人と結婚した人で、恋愛と結婚は別物と考える人は64.7%。交際人数が1~5名の人は73.0%。6~10名の人は88.9%。11名以上の人は95.3%。つまり、結婚前の交際人数が多い人ほど恋愛と結婚は別と考えているようです。いくつかその理由も載っていました。「好きだけでは実生活を継続させることができないから」(43歳女性)。「感情を優先できるのが『恋愛』で、生活を優先するのが『結婚』だと思うから」(50歳女性)。「恋愛は2人だけのものだが、結婚は親族も含む家族のものだから」(27歳女性)。
恋愛は結婚した二人に神様が与えてくれた喜びだと思います
いかがでしょうか。恋愛感情だけでは結婚生活は成り立たないと考えているという現実的な結果であると同時に、初めてお付き合いした人と結婚した人ほど、結婚と恋愛を別物とは考えていないという結果に、さすが日本人だと嬉しく思います。つまり、初めてお付き合いした人と結婚したという人ほど、恋愛は結婚前の楽しみではなく、結婚した人との喜びであると考えているということですよね。恋愛は恋愛、結婚は結婚ということではなく、恋愛は結婚した二人に神様が与えてくれた喜びだと私も思います。
「結婚がつまらない」という人も多いのでしょうか
ところが、「結婚がつまらない」というコメントを集めたサイトも見ました。「自分で好き勝手に生きている私が、結婚したのが間違いだったのは分かっています。旦那さんはいい人だし、子供も可愛いので、この家庭を壊すことはいけないし、自分のとった行動(結婚・出産)を責任をとって全うしなくてはいけないと思っているので、あきらめはあきらめるのですが、やっぱりつまらないです。」 こんな風に感じている人も多いのでしょうか。
何を目的に結婚するのでしょうか
やはり大切なことは目的をはっきりさせることではないでしょうか。何を目的として結婚するのでしょうか。私は神様を中心とすることだと思います。そこに幸せな恋愛、結婚があると思います。それでは今日も聖書の続きを読んで私が考えたことを書いてみたいと思います。神様を中心とすることについて考えていただければと思います。
新約聖書 ルカの福音書14章25~35節
さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講話を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」
弟子としての覚悟ではないでしょうか
いよいよパリサイ人、律法学者、体制側の人々との対立が明らかとなり、イエスご自身は十字架の死について思いをめぐらしながら、こんなはずじゃなかったということにならないように、群衆に対してイエスの弟子になるとはどういうことなのか、その覚悟を迫ったのではないかと私は思います。「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎む」という極端な言い方をしていますが、これらは間違いなく何よりも大事なものだと思います。それらを文字通り憎むことではなく、それくらいの覚悟があるかと問われたのではないでしょうか。
この働きのために残された生涯を使いたい
「自分の十字架を負う」とは、イエスご自身が十字架につけられることと重なりますが、死刑判決を受けた者は十字架を負わせられて、刑が執行される場所まで歩かされたのです。弟子とは、そのように自分の十字架を負ってイエスについて来ることだと言った訳です。私に当てはめて考えるのであれば、神様を中心とした生活には全ての問題の解決があると本当に確信するのか。自分の満足のためではなく、それが本当に全ての人のためを思ってのことなのか。じっくりと考えた末の答えなのか。それが塩味ではないでしょうか。もし、中途半端になって、塩味を失うなら、それは何の役にも立たないものになってしまいますね。確信を持って、何事があっても神様を中心として生きる。ここに心を定めて、そのために残された生涯を使いたいと思っています。