神道と古代ユダヤ教の特殊な共通点

神道と聖書の信仰の共通点

月曜日のテーマは「日本とイスラエル」です。日本人の信仰、文化、伝統、価値観には古代イスラエル民族と聖書の信仰の影響があるということについてお伝えしています。今日は日本の神道と聖書の信仰の共通点について、坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」からご紹介いたします。

共通する偶像礼拝の禁止

巨石を御神体として尊んだからといって、我々日本人はその石を拝んでいるわけではない。あくまでそこに降り立つ神の霊を拝んでいるのであって、石は礼拝の対象ではない。ユダヤ教でも同様である。ユダヤ人の父祖ヤコブは神を礼拝するために、石を立てて、そこにオリーブ等からとれる油を注いだ。石を立てたのは神の立つ神聖な場所を記念しているのであって、石そのものを拝んでいるわけではない。ユダヤ教では石などの物を拝んだり、像を作って拝むことを「偶像崇拝」として忌み嫌う。

例えば神社の中には鏡が置かれていることが多い。我々が拝むその先に鏡があると、鏡を拝んでいるように見えるが実はそうではなく、その鏡に降臨される神を拝んでいるのだ。つまり神道では決して偶像礼拝はしないのである。この偶像礼拝をしないという共通点は、特殊な共通点であり、古代ユダヤ教が神道と何らかの関係があることを示す重要な手がかりではないだろうか。

伊勢神宮には三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)があり、御神体と呼ばれている。実は、その鏡の裏にヘブライ語が書かれている、という話がある。興味深いのは、神道同様、ユダヤ教にも「三種の神器」が存在する、ということだ。それは「十戒の石板」と「アロンの杖」、そして「黄金の壺」の三つである。

そしてこれら「三種の神器」が納められていたのが、日本の神輿(みこし)の原型ではないかと思われる、「契約の箱(アーク)」である。これら三種の神器を納めた「契約の箱」が、イスラエルの「会見の幕屋」や神殿の至聖所と呼ばれる大祭司しか入ることの許されない最も神聖な場所に置かれていたのだ。(坂東誠著「秦氏の謎とユダヤ人渡来伝説」からの抜粋は以上です。)

神様は全てを超越しておられる霊的な存在

神様は霊的な存在であって、人の手で造られた像ではない。これが本来の日本人が持っている信仰だと思います。確かに石でも、木でも、太陽さえも、そこに宿る神様の霊を覚えて日本人は手を合わせることがあると思います。実は聖書にも、神様は天にも地にも満ちておられるとあり、聖書の信仰との共通点を感じます。それは何か特定の宗教を信仰することではなく、全てを超越しておられる神様を崇めることだと思います。

日本人の信仰

この神様にいつも心を向けて、神様の思いを中心にした生活をしましょう。それが日本人の心であり、本来の人間のあるべき姿だと思います。それでは、今日も聖書の続きを読み、神様に思いを向けてみましょう。

新約聖書 ルカの福音書19章29~40節

オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」

使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか」と彼らに言った。弟子たちは、「主がお入用なのです」と言った。そしてふたりは、それをイエスのもとに連れて来た。

そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。

「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」

するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください」と言った。イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

イエスを王として迎える

いよいよイエスの一行は神の都エルサレムに入ろうとしていました。イエスはろばの子に乗っていました。弟子たちは、これまで自分たちが見たすべての力あるわざ、つまり、盲人の目を開け、生まれつき歩けない人を立たせたことや、その教えのことを指していると思いますが、それゆえに、この方こそ神様がこの世界に送ってくださった王だ、と言って大声で神様をほめたたえたということだと思います。

これも神様を中心とすること

すると、そこにいたパリサイ人のうちのある者が、「弟子たちをしかってください」、つまり、このようなことをやめさせてくださいと言ったとあります。イエスの答えは、「やめさせてはならない」ということでしょう。「あなたたちの方こそ間違っている」ということでしょう。イエスは、自分は確かに神様から送られた王であり、このように迎えられることは正しいことだとされたのだと思います。神様を中心とすることは、必ずしもキリスト教徒になることではありませんが、このようにイエスをお迎えすることではないでしょうか。